このシリーズが扱うこと、扱わないこと
名前が出ない、約束を忘れる、最近抜ける感覚が増えた。本シリーズは、そうした「もの忘れ」と「ボケるのではないか」という不安を、加齢の自然な変化と認知症の不安に分けて、生活設計と心の側から整理する10話です。受診の必要があると思われる症状はかかりつけ医、地域の物忘れ外来、もの忘れ専門医に必ずご相談ください。本シリーズは認知症の診断や治療を扱う読み物ではありません。
同時にお伝えしておきたいのは、本シリーズは、認知症やMCI(軽度認知障害)、その他の認知機能に影響する病気の判断材料を提供するものではありません。スクリーニング検査の自己実施を勧めることもしません。気になる症状がある場合は、かかりつけ医、地域包括支援センター、もの忘れ外来など、専門の窓口にご相談ください。
名前が出てこないというよくある瞬間
同僚の名前、芸能人の名前、隣の家の人の名前。ふだん何の問題もなく口にしていた名前が、ある日、ふっと出てきません。喉のあたりまで来ているのに、最後の一押しが、出てきません。本人は、しばらく黙ってしまい、相手は気づかれないように、話題を進めます。
この一瞬の出来事は、本人の中で、必要以上に重く受け取られています。名前が出てこなかったという小さな事実が、自分は何かに侵されているのではないか、という大きな不安に、跳ね上がります。
動揺の正体は名前の喪失ではない
本人を動揺させているのは、名前そのものが出てこなかったことではありません。動揺の中身を解いていくと、自分は以前と同じではないかもしれない、衰えはじめているのかもしれない、まわりにそれがバレるかもしれない、という、未来の自分への不信です。今この瞬間の名前の喪失が、未来の不安と直結してしまっています。
名前が出てこないことを、ふだん起きる小さな出来事として扱えれば、本人の心は静かに収まります。動揺するのは、その小さな出来事を、本人が「兆候」として読み替えてしまうから、です。
名前が出ないのは年齢だけの問題ではない
名前が出てこない瞬間は、若い世代にも、もちろん起きています。20代30代の本人が、芸能人の名前を思い出せない、同期の旧姓を忘れている。これは病気でも衰えでもなく、人間の記憶の正常な振る舞いです。出てこない名前は、ほどなくして、別の場面でひょこっと出てきます。
40代50代60代になると、同じ現象が、本人の中で重く感じられます。出来事は同じでも、本人がそれをどう受け取るかが、年齢で変わっています。本人を消耗させているのは、出来事ではなく、出来事への過剰な解釈です。
固有名詞は最初に出にくくなる
人間の記憶のうち、固有名詞(人の名前、地名、商品名)は、一般名詞や動詞よりも、出にくくなる傾向があります。これは加齢以前から、すべての年齢で見られる現象で、固有名詞だけが特別に弱いから、です。本人の記憶全体が衰えているわけではなく、最初に弱い分野が、表に出てきているだけ、ということがあります。
名前が出てこないけれど、その人の顔、職業、いつ会ったか、何の話をしたか、は、覚えている。これは、記憶の中身が消えたのではなく、名前という呼び出しキーだけが、一時的に届かない状態、です。本人の中に情報は残っています。
「のど元まで出かかっている」は記憶の正常な姿
名前が出てこない瞬間、本人は「のど元まで出かかっている」感覚を持つことがあります。心理学では、これは「TOT現象(tip of the tongue)」と呼ばれ、すべての世代で起きることが、長く確認されています。健康な記憶機能の中の、ごく当たり前の振る舞いです。
のど元まで出かかっている、ということは、本人の頭の中に、その情報がちゃんと残っている、ということでもあります。完全に消えてしまっていれば、出かかっている感覚自体が、起きません。出てこないことに動揺するより、出かかっている感覚を、記憶が生きている証拠として、受け取り直してみてください。
名前を強引に思い出そうとしない
名前が出てこないとき、本人は、その場で必死に思い出そうとします。眉間にしわを寄せて、頭の中の引き出しを開け閉めしますが、出てきません。これは、強い緊張の中では、記憶が引き出しにくくなる、というよく知られた傾向のためです。
出てこないと気づいた瞬間に、いったん思い出すのを中断します。話題を別の方向に流すか、「あの、ほら、ええと、あれですね」と本人の中で名前を保留したまま会話を進めるか、にします。30分後、寝る前、翌日の通勤中。ふとした瞬間に、名前が、勝手に頭の中に浮かんできます。
「思い出せた」を記録に残す
名前が出てこなかった経験は、本人の中で強く残ります。一方、しばらく後に勝手に思い出せた経験は、本人の中で簡単に流れていきます。出てこなかった経験ばかりが本人の中にたまって、思い出せた経験は数に入りません。これは、本人の認知の片寄りです。
意識的に「思い出せた」を本人の中で記録します。「あ、出てきた」と一瞬だけ立ち止まり、本人の中で記憶の働きを認めます。記録するというのは、ノートに書くというより、心の中で確認する程度で、十分です。これだけで、本人の中の自分の記憶への不信が、少し緩みます。
動揺したときの三つの呼吸
名前が出てこない場面で動揺したら、その場で三回、ゆっくり呼吸を整えます。呼吸が浅くなると、記憶も身体も、さらに固まります。ゆっくりした呼吸は、本人の身体に、慌てなくていい、という信号を送ります。
呼吸を整えるあいだに、相手との会話は止まります。それで構いません。一拍空いた会話の方が、相手にとっても聞き取りやすいことがあります。本人が、自分の動揺を抱えながら、無理に会話を進める必要は、ありません。
名前を覚える努力を増やさない
名前が出てこない経験が増えると、本人は、もっと努力して覚えようとしがちです。会話の中で何度も名前を繰り返したり、暗記用ノートを作ったり。けれど、覚えるための努力を増やしても、出てこない瞬間そのものは、減りにくいです。むしろ、覚えようとする圧力で、本人の記憶への緊張が、強まります。
覚えようとするより、思い出せなくても進める仕組みを、生活の中に作ります。第4話の メモ・リマインダー設計 で扱う、書いておく仕組みのほうが、覚える努力より、本人を救います。
「もしかして」の検索を、夜にしない
名前が出てこなかった夜に、スマートフォンで「もの忘れ 認知症 違い」と検索する人が、います。検索結果は、本人を安心させるよりも、不安を強める方向に、働きます。夜の検索は、本人の判断力が落ちている時間帯で行われるため、ますます不安が大きくなります。
夜にどうしても検索したくなったら、本人の中で「明日の昼間に調べる」と決めて、その夜は閉じる、というルールを置きます。ネットで症状を検索する癖 も、合わせて参考になります。
身近な人の反応に、左右されすぎない
名前が出てこなかったことを、家族や同僚に話すと、心配されるか、励まされるか、軽くあしらわれるか、のどれかになります。本人は、心配されると不安が増し、励まされると本人の感覚が否定されたように感じ、あしらわれると寂しさが残ります。
身近な人にすべて理解してもらおうとせず、本人の感覚は本人のもの、と少し距離を置きます。本人の中で「これは私の問題」と置き直すだけで、家族の反応に振り回されにくくなります。
不安の入口は、第3話で扱う
名前が出てこないという小さな出来事から、本人の中で大きな不安が立ち上がる仕組みを、第3話 不安が記憶を悪くする仕組み でより詳しく扱います。不安と記憶の関係を理解すると、本人の動揺は、ずいぶん軽くなります。
本シリーズの読みは、順番通りでも、気になる回から飛ばし読みでも、構いません。本人の生活で、いま一番気になっている話から、開いてください。
受診を視野に入れることは恥ではない
もの忘れの不安が長く続く場合、本人がかかりつけ医に相談する、地域の物忘れ外来を受診する、という選択肢があります。これは、認知症だと診断されることを覚悟する、という重い動作ではなく、現状を確認しに行く、という軽い動作でも、構いません。
第9話 受診を決めるラインの引き方 で、受診を考えるときの目安を扱います。気になる症状がある段階で、無理に自分で判断せず、専門家の助けを借りる、という前提を、本シリーズの全体に置いておきます。
「将来の自分」を心配しすぎない
名前が出てこなかった瞬間に、本人の中で「将来寝たきりで何も分からなくなる自分」が、一気に立ち上がることがあります。これは、現在の小さな出来事から、ありえる未来の最悪の像を引き出す、本人の不安の働きです。カレンダーと想像 でも扱われている、未来が先に来る、という現象です。
将来の自分は、現在の本人が決められる範囲の外にあります。心配しすぎず、現在の本人が今日できる仕組みづくりに、エネルギーを向けます。本シリーズは、その仕組みづくりを、10話で扱います。
関連するシリーズ
もの忘れの不安は、健診結果への不安と地続きです。健診への不安シリーズ や、先回り不安シリーズ も、合わせて読んでみてください。本人の不安全般の地盤づくりに、役立ちます。
また、親世代の物忘れに気づき始めた本人には、介護準備期のシリーズ も背景として有用です。第6話 親の物忘れに気づいたら と合わせて、参考にしてください。
「以前と同じ」を求めすぎない
本人が動揺する背景には、「以前の自分」が基準として置かれていることが多いです。20代30代に名前がぱっと出てきた自分を基準にすると、今の本人は、毎回劣っているように感じます。けれど、人間の能力の中身は、年齢で変わっていきます。固有名詞の取り出しは少し遅くなるかわりに、人生の経験の総量、関係の読み方、判断のバランス、は積み上がっています。
基準は、今の本人に合わせて、置き直します。「以前と同じ」ではなく、「今の自分でできる範囲」を、本人の中の新しい基準にします。これは、衰えを認める、という重い言葉ではなく、本人を今の自分に合わせ直す、という軽い動作です。
本シリーズで扱う10の局面
第2話では、加齢と認知症のあいだにある長い余白を扱います。第3話では、不安が記憶を悪くする仕組みを整理します。第4話以降では、メモ・リマインダー、仕事のミス、親の物忘れ、配偶者との分担、自分史、受診の目安、と、具体的な場面に降りていきます。最終話の第10話では、忘れる前提で生きる、という暮らしの設計を、扱います。
10話を通じて、本人が、自分の記憶との関係を、攻撃でも放置でもなく、ゆっくり整え直していくための言葉を、揃えていきます。一気に変える必要はありません。今日の動揺との距離を、少し変えてみるところから、十分です。
第2話への接続
次回は、加齢の自然な変化と、認知症の不安のあいだにある長い余白を扱います。本人が、自分の状態を、加齢と病気のどちらに置けばよいか分からないとき、その判断は急がない、という前提を、整理していきます。
無料公開はここまで、次回からは会員限定です。
本記事についての注意
本記事は、もの忘れにまつわる心の動揺と、生活設計の整理を扱う読み物であり、医療判断や認知症の診断を代替するものではありません。物忘れの頻度や内容が日常生活に影響している、家族・同僚が継続的に異変を感じている、本人が強い不安・抑うつを伴って苦しんでいる場合は、かかりつけ医、地域包括支援センター、もの忘れ外来、精神科・心療内科にご相談ください。本記事はサプリメント、特定の認知症予防食品、スクリーニング検査の自己実施を推奨するものではありません。記載した内容は一般的な傾向であり、個別のケースを断定するものではありません。
今回のまとめ
- 名前が出てこない動揺の正体は名前の喪失ではなく未来への不信
- 固有名詞は最初に出にくくなる正常な特徴
- 「のど元まで出かかっている」は記憶が生きている証拠
- 強引に思い出そうとしないで保留する
- 「思い出せた」を本人の中で記録する
- 覚えようとする努力を増やすより仕組みを作る
- 夜のセルフ検索は不安を強める方向に働く
- 身近な人の反応にすべてを委ねない
- 受診を視野に入れることは衰えを認めることとは違う
- 「以前と同じ」を基準にせず今の自分に合わせ直す
- 気になる症状はかかりつけ医・物忘れ外来へ