残業のあとにコンビニでチョコレートを買う。試験勉強中にアイスクリームに手が伸びる。その衝動は「甘え」ではなく、ストレスホルモンと報酬系が見せるサバイバル戦略の残像です。
コンビニの前で足が止まる
残業を終えて会社を出る。時計は夜九時を回っている。昼食以降、まともに食べていない。胃が空いているのはわかる。でも今、体が求めているのは「食事」ではない。コンビニの自動ドアをくぐった瞬間に向かうのは、弁当の棚ではなく、チョコレートの棚。あるいはアイスクリームのケース。ポテトチップスの列。──なぜか、甘いもの。こってりしたもの。カロリーの高いもの。理性ではサラダを食べるべきだとわかっている。でも手が伸びるのは、いつも反対方向です。
あるいはこんな場面。試験前の夜。参考書を開いている。集中しなければいけない。頭では理解しているのに、三十分おきに冷蔵庫を開けたくなる。何かを口に入れたい。具体的に「お腹が空いた」わけではないのに、何か甘いものが食べたい。チョコレートをひとかけら口にすると、ほんの数秒、頭の緊張が和らぐ気がする。しかしすぐにまた、食べたくなる。
心当たりのある人は多いはずです。疲れたとき、ストレスが重なったとき、何かを我慢し続けたとき──体は決まって「甘いもの」「脂っこいもの」「味の濃いもの」を欲する。サラダが食べたくなることは、ほとんどない。この極端な偏りには、「意志の弱さ」ではなく、脳と体のあいだで交わされている化学的なメッセージが関わっています。
コルチゾール──ストレスが食欲を「書き換える」
ストレスを受けたとき、体内で起こることを順番に追ってみましょう。
脳がストレスを検知すると、視床下部─下垂体─副腎皮質軸(HPA軸) が作動します。これはストレス応答の中枢回路で、姉妹シリーズ「なぜ体はそうするのか」第1回で紹介した闘争逃走反応の「持続モード」にあたるものです。闘争逃走反応のアドレナリンが秒単位のスプリントなら、HPA軸の産物であるコルチゾール は分〜時間単位のマラソンランナーです。
コルチゾールの主な仕事は、体にエネルギーを供給すること。肝臓に蓄えられたグリコーゲンをグルコース(血糖)に変換し、筋肉と脳に送り届けます。ストレスに対処するためにはエネルギーが必要だからです。ここまでは合理的な反応です。
問題は、コルチゾールが食欲にも影響を与えることです。2001年にエプルとラピガスが《Psychoneuroendocrinology》に発表した研究は、コルチゾールの上昇が高カロリー食品──特に甘くて脂肪分の多い食品──への選好を強める ことを実験的に示しました。被験者にストレス課題を与え、その後の食品選択を観察したところ、コルチゾール反応が高かった群は、低カロリー食品よりも高カロリー食品を有意に多く選択したのです。
なぜコルチゾールは「甘くて脂っこいもの」を欲するよう仕向けるのか。進化的に考えると、筋が通ります。私たちの祖先にとって、ストレス──すなわち脅威──は身体的なものでした。捕食者に追われる、飢餓に備える、気候変動を乗り越える。こうした状況では、最も効率的にエネルギーを摂取できる食品 、つまり糖質と脂質の豊富な食品を求める行動が、生存の確率を上げました。果実の甘さや脂肪分の豊かさに「報酬」を感じる脳の回路は、文字どおり命綱だったのです。
しかし現代のストレスは、捕食者でも飢餓でもありません。上司からのメール、通勤電車の混雑、人間関係の摩擦。身体的に逃げる必要もなければ、エネルギーを大量消費する場面もない。──それなのに、コルチゾールは相変わらず「高カロリーを摂れ」というメッセージを送り続けます。進化が設計した反応と、現代のストレスのあいだに、ミスマッチが生じている のです。
報酬系──「美味しい」は脳の鎮痛剤
ストレス時に甘いものを食べたくなるもう一つの理由は、脳の報酬系 にあります。
報酬系とは、中脳の腹側被蓋野(VTA)から大脳辺縁系の側坐核へと続く神経回路で、ドーパミン を主な伝達物質として使います。快楽や満足感をもたらす体験──おいしい食事、社会的なつながり、達成感──は、すべてこの回路を活性化します。報酬系が活性化すると、ドーパミンが放出され、「もう一度あの体験をしたい」という動機づけが生まれる。
ミシガン大学のケント・バーリッジの研究は、報酬系を二つの成分に分解しました。一つは「wanting(欲しい)」 ──報酬を追求する動機づけ。もう一つは「liking(好き)」 ──報酬を得たときの快感そのもの。この二つは脳の異なるメカニズムで制御されています。「欲しい」はドーパミン系、「好き」はオピオイド系とエンドカンナビノイド系。重要なのは、ストレスは「wanting」を強化する──つまり、ストレスを受けると、報酬をより強く「欲する」状態になる ということです。
甘いものを口にすると何が起きるか。砂糖は舌の味蕾で検出された瞬間から、脳の報酬系を直接活性化します。ラッド大学のアヴェナらの研究(2008年)は、ラットに砂糖水を間欠的に与えると、側坐核でのドーパミン放出パターンが繰り返し増大することを示しました。血糖値の上昇が快感を生むのではなく、「甘さ」という味覚情報そのものが報酬系を刺激する のです。実際、人工甘味料──カロリーはゼロだが甘味はある──でも、報酬系の一部は活性化されることが確認されています。
さらに、甘い食品や脂肪分の多い食品は、内因性オピオイド ──体内で作られるモルヒネ様物質──の放出を促すことが動物実験で示されています。つまり、甘くて脂っこいものを食べると、脳は文字どおり「鎮痛剤」を分泌する。ストレスで不快感を抱えているとき、甘いものを食べると「ほっとする」感覚があるのは、この内因性オピオイドの効果です。慰め効果(comfort effect) と呼ばれるこの現象が、ストレス時のコンビニチョコレートの裏に潜んでいます。
「コンフォートフード」の心理学──慰めの記憶
ストレス時に特定の食品を食べたくなる現象を、心理学では「コンフォートフード(comfort food)」 と呼びます。コンフォートフードの興味深い点は、それが必ずしも「甘いもの」とは限らないことです。ある人にとってはカレーライス、別の人にとっては味噌汁、また別の人にとってはフライドポテト。──コンフォートフードの選択は、脳の生化学だけでは説明しきれない心理的・記憶的な要因 に深く結びついています。
ワンダインらの研究(2015年、《Health Psychology》)は、コンフォートフードの選好が、過去のポジティブな社会的体験と結びついた食品 に向かいやすいことを示しました。子どものころ、家族と一緒に食べた料理。祖母が作ってくれたお菓子。友人とよく行ったファストフード店のメニュー。これらの食品は、「安全」「つながり」「安心」の記憶と神経レベルで結びついています。
ストレスで脅威を感じているとき、脳は「安全」を求めます。その「安全」の手がかりとして、過去に安全と結びついた食品の記憶──味覚記憶、嗅覚記憶、そしてそのときの感情記憶──が呼び出される。これがコンフォートフード現象の心理的側面です。残業後にチョコレートに手が伸びるのは、コルチゾールだけでなく、「甘いもの=安心」という過去の記憶 が、無意識のうちに食品選択を導いている可能性があるのです。
ただし注意が必要なのは、コンフォートフードの気分改善効果は、実際にはそれほど大きくないかもしれないということです。ミネソタ大学のワグナーらの研究(2014年)は、被験者にネガティブな気分を誘発し、コンフォートフードを食べた群、好みでない食品を食べた群、何も食べなかった群の気分回復を比較しました。結果は意外なものでした──三群のあいだで、気分の回復に統計的な有意差はなかった のです。つまり、「コンフォートフードを食べたから気分が良くなった」という体験は、実際には「時間が経てば気分は自然に回復する」ことと区別がつかないかもしれない。
この研究結果は、コンフォートフードの体験を否定するものではありません。しかし、「甘いものを食べなければストレスが解消できない」という思い込みは、脳の報酬系が作り出した(やや誇張された)物語かもしれない ということを示唆しています。食べたから楽になったのか、時間が経ったから楽になったのか──その境界は、私たちが思うほどはっきりしていません。
ストレス摂食の「性差」──研究が示す傾向
ストレスと食行動の関係には、個人差が大きいことが知られています。その中でも、繰り返し報告されているのが性差です。
ツェリーナ・グリーノとリンダ・ウィングの古典的なレビュー(1994年)は、ストレス下での食行動に二つの傾向が混在していることを整理しました。一つは「ストレスで食べる(stress-induced eating)」 、もう一つは「ストレスで食べなくなる(stress-induced anorexia)」 。急性の強いストレス(事故、災害など)では食欲が抑制される傾向が強く、慢性的な日常ストレスでは食欲が増進する傾向が強い。そしてそれぞれの傾向の出やすさに、性差が報告されています。
アメリカ心理学会(APA)が毎年実施する「Stress in America」調査(2014年版)では、女性の約31%がストレス時に食べてしまうと回答した一方、男性は約21%にとどまりました。ゼルナーらの実験研究(2006年)でも、ストレス群の女性はチョコレートやケーキなどの甘い高カロリー食品に向かいやすかったのに対し、男性はステーキやピザなど塩味・脂肪味の食品に向かう傾向が見られました。
この差は、生物学的要因(性ホルモンとHPA軸の相互作用)と社会文化的要因(ダイエット規範への曝露差、食品との関係性の学習パターン)の双方で説明され、どちらか一方に還元することはできません。ここで重要なのは、ストレスで何を食べたくなるかには個人差があり、そのパターンは「性格の弱さ」ではなく、生化学的・文化的な背景の産物である ということです。
グレリンのもう一つの顔──空腹ホルモンとストレスの接点
コルチゾールと並んで、ストレスと食欲の接点で注目されているホルモンがグレリン です。グレリンは主に胃で産生されるペプチドホルモンで、「空腹ホルモン」の別名で知られています。食前に分泌が上昇し、食後に低下する──本来は「お腹が空いている」というシグナルを脳に伝える役割を担っています。
ところが2000年代以降の研究で、グレリンにはもう一つの顔があることがわかってきました。ダリウス・チュルバスらの研究グループ(2011年、《Nature Neuroscience》)は、ストレスを受けたマウスでグレリンの分泌が上昇し、このグレリンが不安や抑うつ様行動を緩和する ことを示しました。つまり、グレリンは「お腹が空いた」だけでなく、「ストレスを和らげる」機能も持っている可能性がある。
この発見は、ストレス摂食を新しい角度から照らし出します。ストレスを受けると、体はグレリンを増やす。グレリンが増えると食欲が出る。同時に、グレリンの上昇自体がストレス緩和に寄与するかもしれない。食べることは、栄養補給であると同時に、体が自分自身に投与する「抗ストレス薬」のような役割を果たしている 可能性があるのです。
ただし、これは動物実験の知見が中心であり、ヒトでのメカニズムはまだ完全には解明されていません。また、「だからストレスで食べるのは良いこと」と結論づけるものでもありません。重要なのは、ストレス時に食べたくなることには、脳と体のあいだの複雑な化学的コミュニケーションが関与している という事実を知ることです。「意志が弱い」の一言で片づけられる話ではない。
「慢性ストレス」と食行動のスパイラル
一度きりのストレス(プレゼン前の緊張、試験当日の不安)と、慢性的なストレス(職場の人間関係、経済的不安、介護の負担)では、食行動への影響が質的に異なります。
急性ストレスでは、交感神経系の活性化により食欲がむしろ抑制されることがあります。「緊張で食べられない」という経験。しかし、ストレスが慢性化すると、HPA軸がエンジンをかけ続け、コルチゾールが持続的に高い状態が続きます。このとき、コルチゾールは食欲を「底上げ」する方向に作用 します。特に、腹部脂肪の蓄積が促進されることが知られています──コルチゾールは脂肪組織の分布様式にも影響を与え、腹部内臓脂肪を選択的に増やすことが、ペレの研究グループ(2001年、マサチューセッツ大学)などで報告されています。
さらに厄介なのが、慢性ストレスと食行動のあいだに生まれるフィードバックループです。ストレスで高カロリー食品に手が伸びる。食べた直後は報酬系が活性化し、一時的にほっとする。しかしその後、「また食べてしまった」という罪悪感が生じる。この罪悪感自体がストレスになり、コルチゾールがさらに上がる。そしてまた食べたくなる──。このスパイラルは、姉妹シリーズ「毎日のなんでだろう」第3回で紹介したwhat-the-hell効果 (「もうどうでもいい」効果)の食行動版です。「今日はもう食べちゃったから、いいや」と自制が崩壊し、さらに食べるパターン。
ここで一つ、誤解を避けておきたいことがあります。このスパイラルの解説は、「だからストレス食いを止めましょう」と説くためのものではありません。スパイラルの構造を知ること自体が、スパイラルの歯車に一つ小さな「隙間」をつくる ──そういう種類の知識です。「今、コルチゾールが食欲を操作しているのだな」と気づけるだけで、自動的な衝動と自分のあいだに一瞬の距離が生まれる。その距離がすべてを変えるわけではないけれど、自分を責める回数は少し減るかもしれません。
このシリーズについて
このシリーズ「なぜ"あれ"が食べたくなるのか」では、食べることにまつわる日常の「なぜ」を、食行動心理学と神経科学の知見から一つずつ解きほぐしていきます。姉妹シリーズ「毎日のなんでだろう」が頭の中の心理パターンを、「なぜ体はそうするのか」が体の反応を扱ったのに対し、本シリーズでは「食べること」──快楽と記憶と感情と社会性が交差する、人間の日常で最も身近な行為──を取り上げます。
食事指導やダイエット法を伝えるシリーズではありません。「なぜそうなるのか」を知ること自体が持つ小さな力──衝動を「意志の弱さ」と混同しなくなること、食べることへの罪悪感が少しだけ軽くなること、自分の体との関係がほんの少し変わること──を届けたいと思っています。
次回(第2回)は、「なぜお腹いっぱいなのに食べ続けてしまうのか」。バイキングで皿を何度も取りに行ってしまう、食後のデザートは別腹──「二つの空腹」の仕組みから見ていきます。
今回のまとめ
ストレスを受けると、HPA軸の活性化によりコルチゾールが上昇し、高カロリー食品──特に甘くて脂肪分の多いもの──への選好が強まる
甘い食品は脳の報酬系を直接刺激し、ドーパミンや内因性オピオイドの放出を通じて「慰め効果」をもたらす
バーリッジの「wanting / liking」理論──ストレスは報酬を「欲する(wanting)」状態を強化する
コンフォートフードの選択は、コルチゾールだけでなく、「安心」「安全」と結びついた過去の記憶によっても導かれる
グレリン(空腹ホルモン)にはストレス緩和機能がある可能性があり、ストレス摂食は体の「自己投薬」としての側面を持つ
慢性ストレスと食行動のあいだにはフィードバックループが生じうるが、そのスパイラルの構造を知ること自体が、自動反応からの距離を生む
ストレス時に食べたくなることは「意志の弱さ」ではなく、脳と体のあいだの化学的メッセージの産物である