退屈は怖いものか、痛みか

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退屈を悪・甘えとせず、人生の自然な相として扱う導入回。全10話の目次つき。退屈と無快楽症(anhedonia)・うつの無気力の鑑別にも触れます。長く続く場合は専門医療へ。

退屈は欠陥ではなく、自分の輪郭に触れる時間でもあります。

このシリーズが扱うこと、扱わないこと

退屈という、本人の生活の中でしばしば訪れる感覚を、悪・甘え・サボりとして扱わずに、人生の自然な一部として、整え直す10話です。退屈を埋める方法の効率化を扱う読み物ではなく、退屈をどう受け止め、どう抱え、どう過ごすか、を扱います。本シリーズは、医療判断や精神疾患の鑑別を代替するものではありません。

退屈が長く続き、何にも興味が湧かない、好きだったものが楽しめない、生活全般のやる気が落ちている、という状態が2週間以上続いている場合は、退屈ではなく、無快楽症(anhedonia)や、うつ病、その他の状態が背景にある可能性があります。本人だけで判断せず、精神科・心療内科・かかりつけ医にご相談ください。本シリーズはあくまで、健康な範囲の退屈を扱います。

退屈は、なぜ怖く感じるのか

本人が退屈な時間を持て余すとき、ただ手持ち無沙汰なだけでなく、ある種の不安、焦り、薄い恐怖を、感じています。何もしていない自分が、社会の中で価値を失っているのではないか、時間を無駄にしているのではないか、置いていかれるのではないか。退屈の中身を解いていくと、こういう不安が、しばしば顔を出します。

退屈そのものは、本人を傷つけるものではありません。退屈を怖いものに変えているのは、退屈の隣に並べた、生産性、効率、進歩、という現代の物差しのほうです。退屈の不快さの多くは、この物差しからの圧力で、できています。

退屈は、軽い痛みでもある

怖さとは別に、退屈は、本人の身体の中に、軽い痛みのような感覚を、起こします。じっとしていられない、何かしたくなる、画面を開きたくなる、誰かに連絡したくなる。これは、退屈という状態が、本人の中で「動きたい」「刺激がほしい」という方向に、押し出してくるためです。

軽い痛みは、本人の身体に組み込まれた信号として、自然な働きです。退屈の不快さを完全に消そうとすると、本人の生活は、刺激の連続供給の中に、入ってしまいます。痛みを完全に消そうとせず、軽く存在を認めるくらいで、ちょうど良いです。

退屈は怖いものか、痛みか

退屈と無快楽症は、別のもの

本シリーズが冒頭で必ず触れておきたいのは、退屈と、無快楽症(anhedonia)の違い、です。退屈は、健康な人にも訪れる、一時的な状態です。退屈な時間が終われば、本人はまた、好きなものを楽しめます。一方、無快楽症は、本人が以前楽しめていたものを楽しめなくなる、長く続く状態で、うつ病や、その他の精神疾患の症状として、起きます。

退屈な日があった、ではなく、ここ数週間ずっと、何をしても楽しくない、好きだったことに興味が湧かない、笑える瞬間が減った、という状態が続いている場合は、退屈の話ではなく、医療的な相談の入口に、立っている可能性が、あります。趣味が立ち上がらない時期 も合わせて参考にしてください。

退屈と、うつの無気力は、別のもの

うつ病の症状の一つに、無気力、意欲の低下、興味の喪失、があります。退屈と、うつによる無気力は、本人から見ると似た顔で現れますが、中身は違います。退屈は、本人の中に「何かしたい」という方向のエネルギーが残っているのに、それを向ける先がない状態です。うつによる無気力は、向ける先以前に、エネルギーそのものが、深く落ち込んだ状態です。

本人が、自分は退屈しているのか、うつの兆候なのか、を、自力で判断する必要は、ありません。区別は、専門家の仕事です。気になる状態が続いているなら、精神科・心療内科を、ふつうの相談先として、視野に入れてください。本シリーズは、健康な退屈の話だけを、扱います。

退屈は、人生の自然な相

本人が生きている時間のすべてが、充実、楽しさ、目的、で埋まっている人は、いません。退屈な時間は、すべての年代、すべての立場の人に、必ず訪れます。退屈は、人生の欠陥ではなく、人生の自然な相、です。

退屈を、人生から消すべきものとして扱うと、本人は、退屈の度に、自分を責めることになります。退屈を、人生にふつうに同居するものとして扱うと、退屈の重さは、ずいぶん軽くなります。これは、退屈を肯定する話ではなく、退屈を否定しないだけの、軽い姿勢の話です。

「忙しい」自慢の中で見失う退屈

社会の中では、「忙しい」「予定でいっぱい」が、しばしば肯定の言葉として、流通しています。逆に「暇」「予定がない」「退屈している」は、否定的な響きを、持ちます。本人がこの空気の中にいると、退屈な時間を持つこと自体が、後ろめたくなります。

けれど、忙しさは、その人の価値を決めるものでは、ありません。退屈な時間を持っている本人を、本人が責める必要は、ありません。社会の空気と、本人の生活の実感は、いったん切り分けます。

退屈の中で、自分の輪郭に触れる

退屈な時間の中で、本人は、自分の中の声、感情、考え、に、ふだんよりも近くで触れます。忙しい時間の中では、本人の表面の動きで日々が過ぎますが、退屈な時間は、表面の動きが止まるため、内側のざわめきが、聞こえます。

このざわめきは、楽しいものとは限りません。本人が抑えていた寂しさ、不満、悔い、不安、が、退屈の中で顔を出すことが、あります。退屈が怖く感じる本人の中には、このざわめきに触れたくない、という気持ちが、隠れていることが、しばしばあります。

「埋める」と「過ごす」は違う

退屈な時間を、刺激や用事で埋めるのと、退屈なまま過ごすのは、別の動作です。埋めるは、退屈を消す方向の動作です。過ごすは、退屈と一緒にいる動作です。どちらが優れているという話ではなく、両方が、本人の生活に必要です。

本シリーズが少しだけ強調するのは、現代の生活が、埋める動作に、偏りすぎていることです。過ごす動作の練習を、ほんの少し、生活の中に戻してみる。これだけで、本人の暮らしの呼吸が、少し変わります。

退屈な時間を、罰として扱わない

本人が、退屈な時間を「自分の生活設計が下手だから」「友達が少ないから」「趣味がないから」と、本人への罰のように受け取ることが、あります。これは、退屈の中身を、本人への評価へと、すり替えています。

退屈は、本人の能力や人間性の評価では、ありません。日常の中の、ただの時間の質、です。退屈な午後を過ごした本人は、退屈な午後を過ごした本人、というだけで、それ以上の意味は、必要ありません。

スマートフォンと退屈の関係

退屈の入り口で、本人は、ほとんど無意識に、スマートフォンを開きます。SNS、動画、ニュース、メッセージ。退屈の感覚を、画面の刺激で、上書きします。この上書きは、退屈の不快さからは本人を救いますが、別の疲れを、本人の中に残します。第3話で扱う スマートフォンで退屈を埋める癖 で、より詳しく整理します。

画面を開くこと自体を、悪として扱う話ではありません。ただ、退屈な瞬間の度に画面を開く、という反射が、本人の中で強くなりすぎていないか、を、いったん見ます。メッセージ疲れ通知と注意のすり減り の話とも、地続きです。

退屈と、休息は違う

退屈と、休息は、外から見ると似ていますが、本人の中身は違います。休息は、本人が、身体と心の回復のために、意図的に何もしない時間です。退屈は、本人が、何かしたいけれど向ける先がない、という宙ぶらりんの時間です。両者は、混ざることもあれば、まったく別のこともあります。

本シリーズは、退屈の話を中心に扱いますが、休息の話と完全に分けるのは、難しいです。ぼうっとしている時間の中に、休息と退屈の両方が、同居していることが、ふつうです。遊びと余暇の尊厳 も、参考になります。

退屈は、創造の前段にもなる

退屈な時間の中で、本人の頭は、新しいつながり、新しい思いつき、を、勝手に作り始めることが、あります。古くから、創作する人、研究する人、考える人、は、退屈の時間を、創造の前段として、大切にしてきました。これは、退屈に意味を読み込みすぎる話ではなく、退屈に副作用として、こうした働きもある、という話です。

第7話の 創ること・作ること で、退屈と創造の関係を、扱います。ただし、退屈を「創造の前段だから尊い」と祭り上げると、退屈そのものを、また道具に変えてしまいます。退屈は、退屈のままで、構いません。

退屈の許容量は、人それぞれ

同じ静かな日曜日を過ごしても、本人はそれを心地よい余白と感じることも、耐えがたい空白と感じることも、あります。退屈の許容量は、本人の気質、その時期の体調、最近のストレスの量、によって変わります。許容量が低い時期に退屈を抱えるのは、本人にとって、ふだんよりも重い負担です。

本人が、自分の退屈の許容量を、世間の平均と比べて、低い、高いと判定する必要は、ありません。本人の許容量は、本人のもの、です。許容量が低い時期は、退屈を埋める方向を多めに、許容量が回復したら、退屈と過ごす方向を増やす、という具合に、本人の中で調整します。

本シリーズで扱う10の局面

第2話では、ぼうっとしている時間と怠惰を切り分けます。第3話では、スマートフォンで退屈を埋める癖の代償を整理します。第4話以降では、仕事の退屈、休日の動けなさ、人間関係の退屈、創ること、子どもの退屈、退屈を抱え続ける選択、と、具体的な場面に降りていきます。最終話の第10話では、退屈を耐える、抗わずに居る、という姿勢を、扱います。

10話を通じて、本人が、退屈との関係を、戦いでも逃避でもなく、ゆっくり整え直していくための言葉を、揃えていきます。一気に変える必要はありません。今日の退屈との距離を、少し変えてみるところから、十分です。

退屈に「深い意味」を読み込みすぎない

本シリーズは、退屈を肯定する文脈で書かれていますが、退屈に過剰な意味を読み込むことには、慎重です。退屈は素晴らしい、退屈こそ本当の人生、退屈に向き合えない人は浅い、というような言い方は、しません。退屈は、退屈です。深くも浅くもなく、ただ、人生の中にある時間の一形態、です。

本人が、退屈を「特別な状態」として扱うほど、退屈の中で、本人は緊張します。退屈は、ありふれた、何でもない時間、として扱うほうが、本人の生活の中に、自然に収まります。

退屈を、軽視もしない

同時に、退屈を、軽く扱いすぎるのも、避けます。退屈が長く続いて本人を苦しめている場合、退屈の重さを「気のせい」「気分の問題」と片付けると、本人の中で、苦しみが、置き場を失います。本人が退屈で苦しんでいる、という事実は、そのまま、受け止めて構いません。

退屈の重さが、本人の生活を妨げているなら、それは相談の対象です。先ほど触れたように、無快楽症、うつ、その他の状態が、退屈の顔をして現れていることもあります。専門家に相談することは、退屈を大げさにすることでは、ありません。

本人を主語に、退屈を扱う

本シリーズは、退屈を、社会一般の問題ではなく、本人の生活の中の問題として、扱います。本人がどう感じているか、本人がどう過ごしているか、本人がどう抱えているか、を中心に、整理していきます。世間の言う「退屈との上手な付き合い方」を、本人に当てはめる方向では、書きません。

本人にとって、退屈の中身は、人それぞれです。本シリーズの中の言葉も、本人に合わない部分は、読み飛ばして構いません。本人の生活に、軽く役立つ部分だけを、持ち帰ってください。

第2話への接続

次回は、ぼうっとしている時間と、怠惰の違いを扱います。本人が、ぼうっとしている自分を、怠けていると責めずに済むための、整理を行います。

無料公開はここまで、次回からは会員限定です。

関連するシリーズ

退屈の話と並べて読むと役に立つ既存シリーズを、挙げておきます。趣味が立ち上がらないシリーズ は、退屈と無快楽症の境目を扱ううえで、特に隣接しています。遊びと余暇の尊厳シリーズ仕事モードの切り替えシリーズ も、退屈の話と地続きです。

本人の生活の他の側面では、日常ストレスシリーズ判断疲れシリーズ先回り不安シリーズ も、合わせて読むと、本人の暮らしの底面を、広く整える助けになります。退屈は、これらと混ざりながら、本人の生活の中に、ふつうに同居しています。

シリーズ

「退屈との付き合い方」── 退屈という贅沢と恐怖10話

第1回 / 全10本

第1回 / 無料記事

退屈は怖いものか、痛みか

退屈は欠陥ではなく、自分の輪郭に触れる時間でもあります。

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第2回 / 無料記事

ぼうっとしている時間は怠惰ではない

ぼうっとしている時間は、生産の前段でも後ろめたさでもありません。

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第3回 / 無料記事

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第10回 / 会員向け

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