ぼうっとしている時間は怠惰ではない

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ぼうっとする時間と怠惰を切り分けます。何もしていない時間の価値を、努力や成果の物差しから外して扱います。

ぼうっとしている時間は、生産の前段でも後ろめたさでもありません。

ぼうっとしている自分への、見られ方への気がね

カフェで一人、何もせずに座っているとき、家で日曜の昼にぼんやりテレビをつけたまま動かないとき、本人は、誰かに見られているような気がして、落ち着かなくなることが、あります。実際には誰も見ていないことが多いのに、本人の中に、ぼうっとしている自分を、責める視線が、住みついています。

この視線の正体は、本人の外ではなく、本人の中に作られた、社会の声、です。働いていない時間、生産していない時間、誰かのために動いていない時間に、価値がない、と告げる声、です。この声を、いったん相対化することから、始めます。

怠惰と、ぼうっとしているは、別の現象

怠惰は、本人がやるべきことを認識しながら、それを意識的に避けている状態、です。一方、ぼうっとしているは、特にやるべきことに向き合っていない、休止のような時間、です。両者は、外から見ると同じように見えますが、本人の中身は、まったく違います。

本人が、ぼうっとしている自分を、怠惰だ、と扱うと、本人の中で、休止の時間が、罪の時間に変わります。これは、本人の身体と心に、必要な休止を、奪う動きです。ぼうっとしているは、怠惰では、ありません。

頭は、止まっているときに整える

本人がぼうっとしている時間に、頭の中では、ふだん意識していない動きが、進んでいます。日中に取り込んだ情報の整理、感情のラベリング、記憶の定着、判断の準備。これらは、本人が積極的に何かをしている時間よりも、止まっている時間に、活発になることが、知られています。

ぼうっとしている自分を、生産していない自分、として扱うと、この内側の動きが、見えなくなります。実際には、本人の内側では、ずいぶんいろいろなことが、進んでいます。表に見える生産だけが、本人の働きでは、ありません。

ぼうっとしている時間は怠惰ではない

「何かしなければ」の圧力を、外しておく

ぼうっとしている時間の入口で、本人の中に、ほぼ自動的に「何かしなければ」という圧力が、立ち上がります。掃除、買い物、SNSの返信、勉強、運動、本を読む、何でも構わないから、生産的な何かを。この圧力に押されて、ぼうっとしている時間は、ふつう数分で、終わります。

圧力を、いったん、観察します。本当にいま、その動作が必要かどうか、本人の中で、確かめます。必要ない場合は、圧力に従わず、ぼうっとしているを、続けます。一日に5分、10分のぼうっとを意識的に確保するだけでも、本人の生活の質感が、少し変わります。

SNSと「ぼうっとしている時間」の混同

スマートフォンを開いてSNSをスクロールしている時間を、本人は、ぼうっとしている時間、と錯覚することが、あります。けれど、SNSのスクロールは、本人の頭にとっては、休止ではなく、軽い労働です。情報処理、感情の反応、比較、判断、を、絶え間なく行っています。

SNSの時間が長いほど、本人は、ぼうっとしている時間を持てたと感じるのに、頭は休まっていない、というずれが、起きます。第3話で、この問題を、より詳しく扱います。スマートフォンで退屈を埋める癖の代償 と合わせて、見てください。

「ぼうっと」は、訓練が要る

ぼうっとしている時間を、何分も持続させるのは、現代の生活の中では、案外、難しいです。本人の頭は、刺激の連続供給に慣れているため、止まっていることに、耐えられなくなっています。最初は、3分、5分のぼうっとから、始めます。

ぼうっとを長く続けようとして、力を入れすぎないことも、大切です。ぼうっとは、頑張って達成する状態では、ありません。気がついたら止まっていた、というのが、ぼうっとの自然な姿です。遊びと余暇の尊厳 の発想も、合わせて参考になります。

窓の外を見る、空を見上げる

ぼうっとしている時間の入口として、簡単なのは、窓の外を見る、空を見上げる、です。何かを観察しようとして見るのではなく、視線をそこに置いたまま、何もしません。雲の動き、葉のゆれ、光の差し方が、本人の視野の中で、勝手に流れていきます。

これは、瞑想や訓練として、構える必要は、ありません。子どもの頃に、教室の窓から外を見ていた時間の延長、として、構いません。本人にとって、軽く立ち上がる、ぼうっとの入り口、です。

湯船、散歩、家事の合間

ぼうっとしている時間は、特別な場所に出かけなくても、生活の中の隙間に、置けます。湯船につかっている数分、家のまわりの散歩、洗濯物をたたんだ後の数十秒。これらの隙間に、スマートフォンを開かずに、ぼうっと、を入れます。

隙間を、すべて情報で埋める癖を、少しだけ、緩めます。隙間が、本人の頭の整理の時間として、機能し始めます。朝のリチュアル の発想を、夜や昼の隙間にも、応用できます。

怠惰のように見える子ども時代の記憶

本人の子ども時代の中に、特に何もせず、縁側に座っていた、空を見ていた、というような記憶が、残っていることが、あります。当時の本人は、それを怠惰とも、ぼうっととも、ラベリングしていません。ただ、そこにいた、というだけの時間です。

大人になると、本人は、その時間を「無駄」「もったいない」と評価することが、増えます。けれど、子どもの本人にとって、その時間は、生活の中のふつうの一部、でした。本人が大人になっても、生活の中にそういう時間を、少し残しておく、というのは、過剰な要求では、ありません。

同居家族と、ぼうっとしている時間

家族と暮らしている本人は、ぼうっとしている姿を、家族に見られることに、ためらいを持つことがあります。働きざかりの大人が、リビングで何もせずに座っている、というのを、家族がどう受け取るかが、気になります。これは、家族との関係というよりも、本人の中の「働いていなければ」という声、です。

家族との間で、ぼうっとしている時間を、ふつうに過ごせる空気を、ゆっくり作ります。最初は、本人がリビングで何もしないまま、家族の動きに干渉しない時間を、少し置く、という程度から、始めます。家族側もそれを尊重しやすくなります。

「何もしない」は、贅沢ではない

世の中には、何もしない時間を、贅沢、特権、として描く言い方が、あります。これは、忙しい人が、たまに何もしない時間を持つことの価値を、強調する文脈で、しばしば使われます。けれど、何もしない時間を、特別な贅沢にしすぎると、ふだんの生活の中の小さなぼうっとが、評価されなくなります。

本人の生活の中の、5分、10分のぼうっとは、贅沢ではなく、生活の基礎です。日々の中に、ふつうに混ぜておく程度で、十分です。

「だらだら」と、ぼうっとの違い

ぼうっとと似た言葉に、だらだら、があります。だらだらは、ぼうっとよりも、消費的な動作を含みます。テレビを見続ける、SNSを延々スクロールする、間食を続ける、というような、刺激を取り続けている状態です。だらだらは、本人を、休めはしますが、軽い疲労も、残します。

だらだらを否定する話では、ありません。だらだらにも、それなりの効用が、あります。ただ、本人がぼうっとしたいと思っているときに、だらだらに置き換わってしまっていないか、を、いったん見ます。

ぼうっとが、罪悪感を生む時期

仕事が忙しい時期、家族の世話に追われている時期、目の前に課題が積み上がっている時期は、ぼうっとした瞬間に、強い罪悪感が、立ち上がりやすいです。本人が、その時期にぼうっとを無理に取ろうとすると、罪悪感に押し戻されて、効果が薄くなります。

こうした時期は、ぼうっとを、無理に追求しません。短い時間で構わない、罪悪感が湧いたらその通り受け止める、というくらいで、ちょうど良いです。休んでも回復しない時期 も合わせて読んでみてください。

ぼうっとした後の、ちいさな観察

ぼうっとした時間のあとに、本人の中で、何が起きていたかを、ちいさく観察します。気分が少し軽くなった、何かを思いついた、特に変化はなかった、もっと疲れた。どの結果でも、それは観察の対象であって、評価の対象では、ありません。

続けるうちに、本人にとって、効果があるぼうっとの長さ、時間帯、場所が、見えてきます。本人が自分の生活に合わせて、ぼうっとの仕様を、ゆるく決めていきます。

ぼうっとしている時間に、無理に意味を求めない

ぼうっとした後に、何か気づきが生まれること、創造の種が生まれること、を、必ずしも期待しません。期待が強いと、ぼうっとの最中に、本人は、気づきを探してしまい、ぼうっとが、結局、軽い労働になります。

ぼうっとは、ぼうっとのまま、終わって構いません。今日のぼうっとに、特別な収穫がなくても、それは失敗では、ありません。今日のぼうっとは、今日のぼうっと、です。

世の中の「サボり」批判から、本人を守る

世の中には、ぼうっとしている人を、サボりとして名指す言い方が、しばしば存在します。本人がその言い方を内面化していると、本人の中に、自分を見張る目が、住み着きます。世の中の「サボり批判」は、本人の生活の中に、必ずしも持ち込まなくて、構いません。

本人の生活の質を決めるのは、世間の評価ではなく、本人の暮らしの呼吸です。ぼうっとしている時間を、本人の生活の必要として、ためらわず、確保します。

「短時間で深くぼうっと」より、「長く軽く」

本人の中には、ぼうっとも効率化したくなる気持ちが、現れることが、あります。短時間で集中して深くぼうっとする、というような発想です。ぼうっとは、効率化の対象に向きません。むしろ、長い時間にわたって、軽く、薄く、ぼうっとしている時間を、生活の中に分散させるほうが、本人の生活に馴染みます。

10分の深いぼうっとを月に2回、よりも、5分の軽いぼうっとを毎日、のほうが、本人の生活に長く根づきます。これは、ぼうっとに限らず、本人の生活設計全般に、当てはまります。

仕事の生産性のために、ぼうっとを取らない

近年、ぼうっとした時間が、創造性や生産性を高める、という言い方が、しばしば紹介されます。本人がこの言い方に乗ると、ぼうっとを、また業務の道具に、変えてしまいます。ぼうっとは、業務を改善するためのものではなく、本人の生活そのものを、軽くするためのもの、です。

業務に役立つかどうかを基準に、ぼうっとを取ったり取らなかったりすると、本人の中で、ぼうっとが、評価の対象に戻ります。評価の対象になった瞬間、ぼうっとは、ぼうっとの効果を、失います。生活の中の、ふつうの一部として、扱います。

「動かない自分」を、責めない練習

動いている自分にだけ、価値がある、と感じる癖は、本人の中に深く根づいていることが、あります。動かない自分を、責める癖を、いったん、緩めます。動かない自分も、その時間の中で生きている、という前提を、本人の中に置きます。

動かない自分を責めない練習は、一日で身につくものでは、ありません。何年もかけて、本人の中で、ゆっくり緩んでいく、と思っておきます。「役に立たない時間」を持つ の発想と、地続きです。

第3話への接続

次回は、スマートフォンで退屈を埋める癖の代償を、扱います。本人を責めずに、画面と退屈の関係を、整理していきます。本人の中に「退屈になったら画面を開く」という反射が住み着いている場合、その反射を一度だけ観察してから、第3話を読むと、入りやすくなります。

本記事についての注意

本記事は、退屈と生活設計の整理を扱う読み物であり、精神疾患の診断や治療を代替するものではありません。退屈ではなく、無快楽症(anhedonia)、うつ病、その他の状態が背景にあると感じられる場合は、精神科・心療内科・かかりつけ医にご相談ください。本記事は特定のサプリメント、療法、自己診断を推奨するものではありません。

今回のまとめ

  • ぼうっとしているを怠惰として扱わない
  • 頭は止まっているときに整える
  • 「何かしなければ」の圧力を観察してから手放す
  • SNSのスクロールはぼうっとに見えて軽い労働
  • ぼうっとは訓練が要るが頑張らない
  • 窓の外、空、湯船、散歩を入り口にする
  • 家族とぼうっとを共有できる空気を作る
  • 「何もしない」を特別な贅沢にしすぎない
  • だらだらと混同しないが否定もしない
  • 忙しい時期は無理せず短くて構わない
  • ぼうっとに無理に意味を求めない
  • 世間のサボり批判を内面化しない

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