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死生観は宗教の持ち物ではなく、生きる人の道具です。
このシリーズは「死そのもの」を考える不安を扱うもので、自死念慮(自分を傷つけたい・消えたい気持ち)を扱うものではありません。本人の中に、自分を傷つけたい、消えてしまいたい、という気持ちが、強くある場合は、 「消えてしまいたい」気持ちのシリーズ を、お読みください。緊急時には、よりそいホットライン(0120-279-338)、いのちの電話(0570-783-556)が、利用できます。
前回は、死の怖さを、種類に、分ける視点を、扱いました。今回は、死生観を、信仰なしで、持つ視点を、扱います。「死生観」という言葉は、宗教の文脈で、よく、語られます。仏教の死生観、キリスト教の死生観、と、宗教ごとに、死生観が、用意されています。
けれど、死生観は、宗教だけの持ち物では、ありません。信仰を、持たない本人でも、本人の中に、本人の死生観を、育てることが、できます。これは、生きる人の、道具です。本記事は、信仰のない本人が、死生観を、持つ視点を、整理します。
死生観とは、本人が、死と、生について、本人の中に、持っている、ものの見方です。「死とは、こういうものだ」「生とは、こういうものだ」と、本人が、本人の中で、ある程度、答えている、見方です。完全な答えである必要は、ありません。本人なりの、暫定的な答えです。
死生観は、本人の中の、不安の中の、軸の役割を、します。軸が、ある本人は、死の問いに、揺さぶられても、ある程度、本人の中の、安定を、保てます。軸が、ない本人は、揺さぶられるたびに、強い不安に、入ります。
信仰を、持たない本人が、持てる死生観の例を、いくつか、挙げます。「人は、生まれて、生きて、死ぬ。それで、終わりだ。だから、生きている間を、大切に、する」というのは、一つの死生観です。「人は、死んでも、自分を、知っている人の中に、残る。だから、人との関係を、大切に、する」も、別の死生観です。
これらは、宗教的では、ありません。けれど、本人の中の、軸として、機能します。本人が、本人の生活の中で、何を、大切にするかを、決める指針に、なります。
信仰を、持たない本人の場合、死生観は、外から、与えられません。本人が、本人で、作る必要が、あります。これは、自由でも、あり、責任でも、あります。本人の中の、納得できる見方を、本人が、時間を、かけて、作ります。
急いで、作る必要は、ありません。本人の中で、死を、考える時間が、増えていく中で、少しずつ、本人の見方が、固まっていきます。「いまの自分は、こう、考える」と、暫定的な答えが、本人の中に、置かれます。
本人の死生観を、作るとき、他人の死生観を、参考に、できます。本、エッセイ、対談、と、いろいろな人が、自分の死生観を、書いて、います。それらを、読むことで、本人の中の、見方が、刺激されます。
「これは、自分にも、当てはまる」「これは、自分とは、違う」と、本人が、本人の感覚で、選別します。すべてを、受け入れる必要は、ありません。本人の中で、しっくり、来る部分だけを、本人の中に、入れます。
信仰なしの死生観の、一つの形が、「自然」を、軸に、する見方です。植物、動物、人、すべては、自然の一部です。生まれて、育ち、衰え、死ぬ、というサイクルは、自然の中で、繰り返されています。本人も、その自然の、一部です。
この見方は、本人の死を、特別なものとして、扱いません。すべての生き物が、する自然な過程として、扱います。これが、本人の中の、死への不安を、軽くする働きを、する場合が、あります。
別の形が、「人とのつながり」を、軸に、する見方です。本人は、本人だけで、生きているのではなく、家族、友人、同僚、と、関わりの中で、生きています。本人が、死んだ後も、本人と、関わった人の中に、何かが、残ります。
これは、宗教的な、霊魂の継続では、ありません。本人と、関わった人の、記憶や、影響として、本人の何かが、続くだけです。けれど、これも、本人の中の、安心の源に、なります。
三つ目が、「いま、ここ」を、軸に、する見方です。死後の世界、過去の記憶、未来の予測、と、本人の意識が、いろいろなところに、行きますが、本人が、実際に、生きているのは、いま、この瞬間だけです。いま、ここを、丁寧に、生きることが、本人の死生観の、中心になります。
この見方は、仏教の発想とも、近い部分が、ありますが、宗教的では、ありません。生活の中の、姿勢として、本人が、選べる見方です。

四つ目が、「死は、終わり」と、はっきり、受け止める見方です。本人が、死んだ後、何もない。意識も、感覚も、無くなる。これで、終わり。という見方です。これは、シンプルな見方です。
この見方は、本人によっては、寂しく、感じることが、あります。けれど、別の本人にとっては、すっきりした見方です。「死後の不明を、考えなくて、いい」という安心が、生まれることが、あります。
五つ目が、「死後のことは、わからない」と、認める見方です。あるか、ないか、を、決めず、わからないものを、わからないまま、本人の中に、置く姿勢です。これは、判断の保留です。
判断の保留は、本人にとって、心地よい場合が、あります。「答えを、出さなくて、いい」という自由が、本人の中に、生まれます。死後のことを、無理に、決める必要は、ありません。
本シリーズの第4話以降は、会員限定の公開です。第3話まで、無料で、お読みいただけます。会員になっていただくと、過去シリーズの会員限定回も、すべて、お読みいただけます。
本シリーズは、特定の宗教を、勧めません。仏教が、いい、キリスト教が、いい、神道が、いい、と、どれかを、推す立場では、ありません。本人が、信仰を、持ちたいなら、本人の選択です。持ちたくないなら、それも、本人の選択です。
信仰は、本人の人生の、深い領域です。他人が、強く、推すべきものでは、ありません。本シリーズが、扱うのは、信仰の有無に、関わらず、本人が、死と、生について、本人の中で、整理する視点です。
本人が、すでに、何らかの信仰を、持っている場合、その信仰の中の、死生観を、活かすことが、できます。本シリーズで、扱う視点は、信仰の中の死生観と、矛盾しない部分が、多いです。両者を、本人の中で、組み合わせて、構いません。
信仰を、持つ本人にとって、本シリーズが、信仰を、否定するものに、見えるかもしれません。そうでは、ありません。本シリーズは、信仰のない本人に、必要な視点を、提供するもので、信仰を、持つ本人の見方を、否定するものでは、ありません。
本人の死生観は、固定された、ものでは、ありません。本人の年齢、経験、出会い、と、いろいろな要因で、変わっていきます。20代の本人の死生観と、50代の本人の死生観は、別のものです。これは、自然なことです。
「いまの自分の死生観は、これだ」と、本人が、確認します。けれど、これが、永遠だとは、考えません。変わっていく余地を、本人の中に、残しておきます。
本人の中の、死生観は、本人の行動に、影響します。「自分は、いつか、死ぬ」と、本人が、強く、意識する死生観を、持つと、毎日の時間の、使い方が、変わります。「やりたいことを、後回しに、しない」「人との関係を、大切にする」と、行動が、変わります。
これは、第8話で、扱う、死を、意識した暮らしの変化の、源です。死生観は、抽象的な見方では、なく、本人の生活に、影響を、与える、実用的な道具です。
本人が、死生観を、明確に、持たない、という選択も、あります。「死については、考えない」「考えても、わからないから、考えない」と、本人が、決めることも、可能です。これも、一つの姿勢です。
けれど、考えないことが、本人を、楽にする場合と、苦しめる場合が、あります。考えないようにしても、夜中に、問いが、戻ってきて、本人を、強く、不安にする、というパターンが、あります。その場合は、ある程度、向き合った方が、本人を、楽にします。
日本の文化の中には、宗教的では、ない、文化的な死生観の、断片が、ある程度、あります。「もったいない」「お天道様が、見ている」「亡くなった人が、見守ってくれる」と、本人の中に、なんとなく、入っている見方です。
これらは、必ずしも、宗教的では、ありません。文化として、本人の中に、入っている、ものの見方です。本人が、これらを、活かすことも、できます。本人の中の、すでに、ある材料です。
死生観を、育てる手段の、一つが、本を、読むことです。死を扱った、エッセイ、ノンフィクション、小説、と、いろいろな本が、本人の中の、見方を、刺激します。一冊で、決めず、複数の本を、ゆっくり、読みます。
本は、他人の死生観を、知る窓です。本人の中の、見方を、固める材料です。死を、考える夜が、続く本人は、本を、一冊、手元に、置くことを、勧めます。 第6話 死を語る場 でも、扱います。
もう一つの手段が、信頼できる人との、対話です。死について、本人が、ふと、話したことを、相手が、否定せず、聞いてくれる関係。本人の話を、受け止めて、相手の話も、聞かせてくれる関係。これが、本人の中の、見方を、育てます。
こういう対話の相手を、見つけることは、難しいです。けれど、一人でも、いると、本人の中の、死生観の、形成が、進みます。家族、友人、カウンセラー、と、選択肢を、本人が、探します。
本人の死生観は、本人の中の、ものです。他人に、説明する必要は、ありません。本人が、本人の中で、納得していれば、それで、十分です。「自分は、こう、考える」を、本人だけが、知っていれば、いい場面が、多いです。
説明を、求められたら、答えなくても、構いません。「あまり、考えたことが、ない」と、答えて、それ以上の議論に、入らなくても、いいです。本人の中の、見方を、無理に、外に、出さなくても、本人の中で、機能します。
本人の中の、死生観が、ある程度、定まると、夜の、死の問いが、軽くなります。問いが、来ても、本人の中の、軸が、本人を、支えます。「自分は、こう、考えているから、大丈夫」と、本人が、本人を、なだめられます。
軸が、できるまでに、時間が、かかります。すぐには、できません。けれど、本シリーズを、読み進める中で、本人の中の、見方が、少しずつ、固まっていきます。
第1話から、第3話までで、夜中の死の問い、怖さの種類、信仰なしの死生観、と、シリーズの基礎を、扱ってきました。第4話以降は、より、具体的な領域に、入ります。親の看取り、自分の死に方、死を語る場、残すもの、暮らしの変化、と、本人の生活に、近い話題です。
本シリーズが、本人の夜の問いの、いい伴走者になることを、願います。
次回からは、会員限定の公開です。次回は、親を看取る想像が、止まらない時期について、扱います。親が、年齢を、重ねるにつれ、本人の中に、強く、現れる、看取りの想像と、どう、付き合うかを、整理します。
このシリーズは「死そのもの」を考える不安を扱うもので、自死念慮(自分を傷つけたい・消えたい気持ち)を扱うものではありません。本人の中に、自分を、傷つけたい、消えてしまいたい、という気持ちが、強くある場合は、 消えてしまいたい気持ちのシリーズ を、お読みください。緊急時には、よりそいホットライン(0120-279-338)、いのちの電話(0570-783-556)が、利用できます。心療内科、精神科、カウンセラーへの相談も、有効です。
無料記事で概要をつかんだら、会員ライブラリや料金ページから続きに進めます。
夜の死は、消したいというより、答えのない問いの形をしています。
怖さを分けると、抱えやすさが少し変わります。
死生観は宗教の持ち物ではなく、生きる人の道具です。
看取りの想像は、愛情の働き方の一つです。
考えることと、選ぼうとすることは違います。
語れない死は、夜に集まります。
残すものは、物より、ことばかもしれません。
死は、暮らしの輪郭を引き直す筆にもなります。
老いと死を分けると、対処できる範囲が見えてきます。
夜は、朝までを生き延びれば十分な時間です。