「なぜ、あの人にはこんな明白なことがわからないのか」
ある政治的なニュースについて、友人と意見が分かれたことはないでしょうか。食卓で家族と子どもの教育方針をめぐって衝突したことは。あるいは、SNSのタイムラインで、自分にとっては明らかに間違っている意見が大量の「いいね」を集めているのを見て、首をかしげたことは。
そのとき、心の中にどんな声が浮かびましたか。
「なぜ、こんな明白なことがわからないのだろう」「情報が足りないんだろうな」「いや、わかっているのに認めたくないだけだろう」──そんな声ではなかったでしょうか。
ここに一つの重要な前提が隠れています。自分は世界をありのままに見ている、という前提です。自分が「明白だ」と感じることは客観的事実であり、それと異なる意見を持つ相手のほうが何かを間違えている──この確信は、あまりにも自然で、疑う必要すら感じない。しかし、その「疑う必要すら感じない」ところにこそ、このシリーズの出発点があります。
素朴実在論──「自分は偏っていない」という偏り
スタンフォード大学の社会心理学者リー・ロス(Lee Ross)と、アンドリュー・ウォード(Andrew Ward)は、1996年に発表した論文で、人間の社会的認知に深く根ざしたある構造を記述しました。彼らはそれを素朴実在論(naïve realism)と名づけました。
素朴実在論とは何か。平たく言えば、「自分は世界をありのままに、偏りなく知覚している」という根深い思い込みのことです。「思い込み」と言っても、それは意識的な信念ではありません。むしろ、意識に上らないほど基底的な認知の枠組みです。私たちは世界を「見ている」のではなく「解釈している」にもかかわらず、自分の解釈を「見ている」のだと信じている。──これが素朴実在論の核心です。
ロスとウォードは、素朴実在論が三つの信念として表れると指摘しています。
信念①:自分は現実を客観的に知覚している。自分の信念や判断は、外界の事実に基づいており、偏りや歪みの産物ではない。
信念②:合理的な他者──十分な情報を持ち、偏見なく考える人──であれば、自分と同じ結論に達するはずだ。
信念③:したがって、自分と異なる意見を持つ人は、(a)情報が不足しているか、(b)怠惰や愚かさのために情報を正しく処理できていないか、(c)何らかの悪意や偏見に動かされているか、のいずれかである。
この三つを並べて読むと、私たちが日常的にやっていることの構造が浮かび上がります。「自分は正しい」→「正しい人なら同意するはず」→「同意しない人は何かがおかしい」。──この三段論法は、論理的には妥当に見えます。しかし出発点──「自分は正しい」──が問われることがない。問題はそこにあります。
ロスの古典的実験──「事実」がまったく違って見える
素朴実在論がどう働くかを示した、有名な実験があります。
1985年、ロスらは、レバノン内戦に関する報道映像をイスラエル支持者とパレスチナ支持者の双方に見せました。同じ映像です。編集もなく、同じ映像を同じ時間見せた。ところが、両群の反応はまるで正反対でした。
イスラエル支持者は「このニュースはパレスチナ側に偏っている」と評価し、パレスチナ支持者は「このニュースはイスラエル側に偏っている」と評価した。同じ映像が、両方から「相手に偏っている」と見なされた。──この現象は「敵対的メディア効果(hostile media effect)」と名づけられました。
ここで起きていることを分解します。両群とも、自分は映像を客観的に見たと信じている(素朴実在論の信念①)。自分にとって「偏っている」と感じたのは、映像が客観的に偏っているからだと確信している。そして相手側が同じ映像を「反対方向に偏っている」と感じることが理解できない──相手は偏見に曇っているのだ、と結論する(信念③)。
注意してほしいのは、これは「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている」という話ではない、ということです。両方が、自分の解釈を「客観的事実」と取り違えている。そしてその取り違えは、どちらの立場にいても同じように起きる。──素朴実在論は特定の政治的立場の産物ではなく、人間の認知の構造そのものです。
なぜ素朴実在論は壊れにくいのか
ここまで読んで、「なるほど、人は自分の見方を客観的だと思いがちなのだな」と理解したとしましょう。しかし、それを「理解する」ことと、それを「自分に適用する」ことのあいだには、大きな溝があります。
認知心理学者のエミリー・プロニン(Emily Pronin)は、この溝を「バイアスの死角(bias blind spot)」と呼びました(Pronin, Lin & Ross, 2002)。バイアスの死角とは、「認知バイアスは存在する、人間は偏っている──ただし自分を除いて」という構造です。
プロニンらの実験では、参加者に認知バイアスの種類と特徴を説明した後、「あなた自身はこのバイアスにどの程度影響を受けていると思いますか」と尋ねました。結果、参加者の大多数は「平均的なアメリカ人はこのバイアスに影響を受けるだろうが、自分はそれほどではない」と回答しました。──バイアスの存在を知った直後ですら、「自分は例外だ」と感じてしまう。
なぜこうなるのか。プロニンの分析は巧みです。人は自分の判断を評価するとき、自分の内的なプロセス──「自分はちゃんと考えた」「証拠を検討した」「感情に流されなかった」──にアクセスできる。ところが他者の判断を評価するときには、その人の内的プロセスは見えない。見えるのは行動と発言だけ。結果として、自分の判断は「合理的なプロセスを経ている」、他者の判断は「よくわからないプロセスで出てきた」と非対称に評価される。
この非対称性が、素朴実在論をきわめて壊れにくいものにしています。「自分は偏っているかもしれない」と仮に認めたとしても、「でも、今の判断については、ちゃんと考えた結果だから大丈夫」と思えてしまう。バイアスへの免疫があるように感じてしまうのです。
さらに厄介なのは、バイアスの死角が知識量に比例して拡大することです。認知バイアスについてよく勉強した人ほど、「自分はバイアスのメカニズムを熟知しているから、それに影響されにくい」と感じる傾向がある──しかし実際には、「知っている」と「免疫がある」はまったく別のことです。知識は意識的な再評価のツールにはなりますが、無自覚に作動する認知プロセスを自動的に停止させはしない。素朴実在論が「壊れにくい」のは、論理的に反駁しにくいからではなく、反駁した瞬間に「自分はもう反駁した側にいる」という新たな素朴実在論が立ち上がるからです。──反省が新しい盲点を生む。この再帰構造が、素朴実在論を認知バイアスの中でもとりわけ根深いものにしています。
素朴実在論が日常にしかける罠
素朴実在論は、政治やメディアの話だけではありません。私たちの日常のあらゆる場面に静かに作動しています。
たとえば、家庭内の衝突。パートナーと家事分担について話し合うとき、「自分はかなりやっている」と思う。相手も「自分はかなりやっている」と思っている。双方が自分の貢献を過大評価し、相手の貢献を過小評価する。──これは素朴実在論の変種です。自分の「やった」は内側から体験されるのでリアルで重い。相手の「やった」は外から観察されるだけなので軽く見える。
あるいは、職場での意思決定。会議で自分の提案が却下された。「なぜこんな合理的な提案が通らないのか」──そう感じるとき、素朴実在論の三段論法がフル稼働しています。「自分の提案は合理的だ」→「合理的な人なら賛成するはず」→「賛成しない人は何かがおかしい」。──しかし、却下した側も、まったく同じ構造で考えているかもしれない。
そして、SNSでの怒り。誰かの投稿に「信じられない」と感じるとき、あなたは自分の反応を「客観的な正しさへの自然な反応」だと感じている。しかし、あなたが怒っているその投稿をした人もまた、自分の意見を「客観的事実に基づく合理的な判断」だと信じている。──両者をつなぐのは素朴実在論という同じ認知構造であり、どちらが正しいかとは独立に、その構造は互いを「理解不能な相手」に変える。
素朴実在論が対人関係を壊す構造
素朴実在論の三段論法──「自分は正しい→合理的な人なら同意するはず→同意しない人は欠陥がある」──は、対人関係においてきわめて破壊的に機能します。なぜなら、このエスカレーションは「理解できない」を「理解しなくていい」に変換するからです。
相手が自分と異なる意見を持っている。そのとき、もし「相手には自分には見えていない何かが見えているのかもしれない」と考えるならば、対話の余地がある。しかし素朴実在論のレンズを通すと、相手の異なる意見は「情報不足」「認知の歪み」「悪意」のいずれかで説明できてしまう。──説明できた瞬間、相手を理解する動機が消えます。「わからない」が「わかった(相手がおかしいのだ)」に変わり、理解の試みが打ち切られる。
ここに、夫婦関係の研究者ジョン・ゴットマン(John Gottman)の知見を重ねることができます。ゴットマンは、離婚を高い精度で予測する四つのコミュニケーションパターンを特定しました。その一つが「軽蔑(contempt)」──パートナーを自分より下の存在として扱う態度です。素朴実在論の信念③──「同意しない人は愚かか、悪意があるか、偏見に動かされている」──は、まさに軽蔑の認知的な基盤になり得ます。「なぜこんなことがわからないんだ」は、相手への軽蔑の入口です。そしてその入口は、素朴実在論が自動的に開けています。
職場でも事態は似ています。プロジェクトの方向性をめぐってチームが対立するとき、双方が「自分の見方が客観的に正しい」と信じていれば、議論は「事実の検討」ではなく「誰が正しいかの裁判」になる。ケネス・トーマスとラルフ・キルマン(Thomas & Kilmann, 1974)の対立スタイル・モデルで言えば、素朴実在論は「競争型(competing)」──自分が勝つことを最優先にする──スタイルを自動的に選ばせる。なぜなら、自分が客観的に正しいなら、妥協は「事実の歪曲」に見えるからです。
「空気を読む」と素朴実在論──日本的な変奏
日本の文化的文脈では、素朴実在論はやや独特な表れ方をします。
日本社会には「空気を読む」という概念が深く根づいています。場の雰囲気を読み取り、それに合わせて振る舞う。このとき、「空気」は客観的な実在として扱われがちです。「あの場の空気を読めなかった」は、まるで物理的な壁に気づかなかったかのように語られる。
しかし「空気」は客観的事実ではありません。それは、その場にいる人々の解釈の集積──というより、「みんなはこう感じているだろう」という各人の推測の重なり──です。そして素朴実在論によって、自分が読み取った「空気」こそが本物の「空気」だと信じる。結果として、異なる「空気」を読んだ人は「空気が読めない人」になる。
「常識」という言葉にも同じ構造が潜んでいます。「そんなの常識でしょう」と言うとき、話者は自分の信念を「誰もが共有すべき前提」として提示しています。しかしその「常識」は、特定の文化・世代・地域・経験に根ざした解釈の産物であり、普遍的な事実ではない。素朴実在論が、個人的な解釈を「常識」にアップグレードし、共有しない人を「常識がない人」に格下げする。──同じメカニズムが、世代間の衝突、都市と地方の隔たり、職場の暗黙のルールをめぐる摩擦の底に横たわっています。
注目すべきは、日本の文脈では素朴実在論がしばしば「個人の信念」ではなく「集団の当然」に変換される点です。欧米文化では「I believe X」(私はXだと思う)という個人的な信念の表明が多いのに対し、日本語では「普通はXでしょう」「Xが当たり前だ」のように、信念が匿名化・一般化される。個人の解釈であるにもかかわらず、発話の時点で「みんな」の意見に昇格している。──この匿名化は、素朴実在論の発見を難しくします。「私はこう思う」なら「いや、私は違う」と反論しやすい。しかし「普通はこうでしょう」に対しては、反論すること自体が「普通ではない」自分を露呈することになるため、反論のコストが高い。素朴実在論は、日本語の話法のなかで殻を一枚増やしている。
このシリーズが向かう場所
素朴実在論から始めたのには理由があります。
このシリーズは、全10回をかけて「価値観は都合よく変わる」という構造を解きほぐしていきます。認知的不協和(第2回)、道徳的免許証(第3回)、動機づけられた推論(第4回)、公正世界仮説(第5回)──これらはすべて、私たちの信念や道徳判断が、自分が思っているほど一貫しておらず、自分に都合の良い方向へ静かにシフトしていくメカニズムを提示します。
しかし、こうしたメカニズムが力を持つ前提には、「自分の価値観は本物だ」という確信がある。そしてその確信がバイアスであることを──つまり、出発点そのものが揺らいでいることを──最初に見ておく必要があります。城を壊すには、土台から見なければならない。
ただし、一つだけ先に言っておきたいことがあります。「価値観が都合よく変わる」ことは、このシリーズにおいて批判の対象ではありません。素朴実在論が認知の欠陥なのではなく、人間がこの複雑な世界を処理するために進化の過程で獲得した認知構造です。問題は、その構造の存在に気づかないまま──素朴実在論という「レンズ」越しに世界を見ていることに無自覚なまま──他者を裁いたり、自分の信念を絶対視したりすることです。
レンズの存在に気づくことは、レンズを外すことではありません。しかし、レンズの存在を知ったとき、見えている世界が「世界そのもの」ではなく「自分のレンズを通した世界」であることがわかる。その区別ができるだけで、私たちと他者との関係、そして自分自身の価値観との関係は、少しだけ変わり得ます。
「レンズがある」と「何でもあり」は違う
素朴実在論に気づくと、「じゃあ全部主観で、何を信じても同じなのか」と感じる人もいます。しかしそうではありません。証拠の厚み、検証の手続き、他者に与える影響には差がある。違うのは、その差を測る自分の物差しもまた無色透明ではない、という点です。
だから必要なのは判断停止ではなく、判断に留保を入れることです。「私はこう見ている。ただ、見え方には自分のレンズが混ざっているかもしれない」。この一文が入るだけで、相手を即座に欠陥扱いする速度は少し落ちます。
今回のまとめ
- 素朴実在論(naïve realism)──人は「自分は世界をありのままに見ている」と信じ、異なる意見の持ち主を「偏っている」と判断する
- ロスとウォードは、素朴実在論が三段階のエスカレーション(自分は客観的→合理的な他者なら同意するはず→同意しない相手は欠陥がある)を生むことを示した
- 敵対的メディア効果──同じ報道映像が、対立する双方から「相手側に偏っている」と認知される
- バイアスの死角(Pronin)──認知バイアスの知識を得た後でも「自分だけは例外だ」と感じる構造的非対称
- 日本文化における素朴実在論──「空気」や「常識」が客観的事実として扱われ、異なる解釈を持つ人が排除される構造
- 価値観の都合よい変化を理解するには、まず「自分の価値観は客観的・一貫的だ」という信念そのものが錯覚であることを見る必要がある
次回は、「それでよかったんだ」と思い直す脳の仕組み──行動が信念を変える「認知的不協和」のメカニズムを見ていきます。