写真の中の自分が他人に見える
友人が撮ってくれた集合写真、職場のイベントで撮られたスナップ、SNSにタグ付けされた写真。そこに映っている自分を見ると、知らない人を見ているような気持ちになります。鏡で見ている自分と、写真の自分が、一致しません。違和感の前で、本人は静かに動揺します。
本記事では、写真の自分への違和感を、本人の感じ方の歪みとして責めず、写真という装置の癖と、自己像という曖昧なものの関係として、整理します。前回の 鏡を見ない日が続く の続きとして、お読みください。
鏡と写真は別のものを映している
鏡は、本人の顔を左右反転で映します。本人が毎日見慣れているのは、この反転像です。写真は、他人から見える向きで本人を映します。脳は、見慣れた反転像を「自分」と認識しているため、写真の正像を「他人っぽい」と感じます。
これは認知科学では「単純接触効果」とも呼ばれます。本人が見慣れている方を、本人は「自分らしい」と感じる。本人が他人に見えているのは、反転していない、もう一人の自分です。違和感は、本人の容姿の問題ではなく、見え方の問題です。
写真は瞬間を切り取り表情を凍らせる
動いているときの本人は、表情が連続して変化しています。笑顔の途中、話している途中、何かを聞いている途中、いろんな瞬間が連なって、ひとりの人の印象になります。写真は、その連続のうちの一瞬を、切り取ります。
瞬きの直前、口を開きかけ、顎が引かれた瞬間。動画なら自然に流れていく一瞬が、写真では固定されます。本人が「自分はこんな顔をしている」と思っているのは、動いている自分の平均像で、写真の一瞬とは、別のものです。
レンズの距離と焦点距離の影響
スマートフォンの内カメラは、広角気味に作られていて、顔の中央が膨らみ、輪郭がやや歪んで写ります。離れた場所から望遠で撮ると、顔は平らに、輪郭は整って見えます。同じ顔でも、レンズによって、別人のように映ります。
写真の自分が嫌に見えるとき、本人の顔そのものではなく、撮影条件のことを、まず考えてみます。距離、レンズ、角度、光の方向。本人を不利に映す条件が重なっていただけ、ということが、しばしばあります。
「他人から見えている自分」と向き合う重さ
写真の違和感の本当の重さは、レンズの問題というより、本人がふだん「自分はこう見られていない」と思いたかった部分が、写真で露わになってしまうことに、あります。本人の自己像と、他人視点の像のあいだに、ギャップが見えてしまいます。
このギャップは、誰にでもあります。本人だけが大きいのではありません。けれど、本人にとっては、自分のギャップだけが目に入るので、自分が特別おかしい顔をしているように、感じられてしまいます。
「いい写真」と「ふつうの写真」の偏り
SNSや人前に出ている顔写真は、本人が選び抜いた「いい写真」が中心です。ふだん本人の目に入る他人の顔は、その人が選び抜いた一枚です。自分の顔は、選ぶ前のすべてが、自分のフォルダに残っています。
つまり、本人は、自分の「ふつうの写真」と、他人の「いい写真」を、無自覚に比べています。これは公平な比較ではありません。本人にも「いい写真」は存在します。他人にも「ふつうの写真」は山ほどあります。
嫌な写真は削除していい
本人が見るたびに気持ちが沈む写真を、わざわざ保管する必要はありません。記録のために残しておく、と思っていたものでも、本人を傷つけ続けているなら、削除する判断が、優先されていいです。
削除は記憶の改ざんではなく、本人の生活の手入れです。残しておきたい写真と、見ると消耗する写真を、本人の感覚で分けて、後者を手放します。これは、本人の自由として、認められる作業です。
SNSのタグ付けは本人の許可とともに
他人が本人の写真をSNSにあげるとき、本人にとって不利な角度の写真が選ばれることがあります。SNSの設定で、タグ付けに本人の承認を必要にする、本人の写真の公開範囲を制限する、といった、機能を使って、視界を整えます。
「写真を載せないでほしい」と言うのは、わがままではありません。本人の生活を守るための、当然の意思表示です。相手との関係の中で、伝えにくい場合もありますが、本シリーズの後半で、伝え方の言葉も、整えていきます。
動画の自分の顔と声も同じ仕組み
ビデオ会議や、自分が映る動画を見たときの違和感も、写真の違和感と同じ仕組みで起きています。声も、本人の頭の中で聞こえる自分の声と、録音された声が、骨伝導の有無で、別物に聞こえます。
顔も声も、外側から見たり聞いたりすると、本人の感じている自分と、ずれます。これはどの人にも起こることです。ビデオ会議で自分の画面を非表示にする、という小さな工夫だけでも、会議中の消耗が、変わります。
「変な顔だ」より「他人視点だ」と言い換える
写真の自分を見て「変な顔だ」と感じたら、その評価を、一段抽象化してみます。「これは他人視点で見た自分だ」「鏡で見慣れた反転像とは違うだけだ」と、言い換えてみます。言い換えても、違和感は完全には消えませんが、評価の刃が、わずかに鈍ります。
これは、自分を強引に肯定する練習ではありません。自分への評価の言葉を、評価から記述に、置き換えていく、という練習です。記述の言葉は、評価の言葉より、本人を傷つけにくいです。
「写真うつりが悪い」と言ってきた人たち
家族や友人から「写真うつりが悪いね」と言われ続けてきた経験を持つ読者がいます。何気ない一言だったかもしれませんが、本人の中に、写真への構えとして、長く残ります。
その言葉は、本人の顔を評価していたのではなく、その瞬間の写真の一枚を、雑に評価していただけです。それを、本人の顔そのものへの評価として受け取ってきた本人の感覚を、ここでいったん下ろします。下ろせなくても、下ろそうとする方向で、十分です。
SNSの加工アプリは「素」の感覚を壊す
加工アプリを通した自分を毎日見ていると、加工していない自分を「素のひどい顔」と感じる感覚が、強くなります。これは加工アプリの仕組みであり、本人の顔の問題ではありません。次回の SNS補正と「素」のずれ で、より深く扱います。
本シリーズの間、加工アプリを完全に手放す必要はありません。けれど、加工アプリを通したあとに、加工していない自分を見るのが、しんどいなら、しばらく使用頻度を下げてみる、という選択も、あります。
記念写真と日常写真を分けて扱う
結婚式、卒業式、家族の節目で撮られる記念写真と、日常のスナップは、本人の中での意味が違います。記念写真は、本人の人生の節目の記録として、見える自分そのものが目的ではありません。本人の家族関係や、その日の場の記録として、価値があります。
日常のスナップは、また別です。本人の今日の顔の記録ですが、これは消耗するなら、残さなくていいです。記念と日常を分けて、それぞれに対する構えを、変えていきます。
写真を撮られる場で消耗しないために
イベントで写真撮影が始まると、本人の心拍が上がります。これは多くの人が共有する反応です。事前に分かっている場では、立ち位置、光の方向、首の角度を、本人なりに決めておくと、当日の消耗が、減ります。
「写りたい・写りたくない」を選ぶ自由も、本人にあります。集合写真の端に立つ、後ろの列に入る、写真撮影の時間に飲み物を取りに行く。これらは逃げではなく、本人の生活を守る選択です。
写真の自分を「資料」として見る練習
写真の自分を、評価対象として見るのではなく、資料として見る、という練習があります。今日の自分はこういう姿勢だった、こういう髪型だった、こういう光の中にいた、と、観察として、見ます。
観察の言葉に切り替えていくと、写真は、本人を傷つけるものから、本人の生活を記録するものに、性質を変えていきます。すぐには切り替わりません。けれど、月に一度でも、観察の目で写真を見られる日があれば、十分です。
関連するシリーズ
写真の自分への違和感は、SNSで他人を眺める時間と切り離せません。通知と注意の章と合わせて、画面と自分の関係を、整えていく視点を、持っていきます。
また、自分の顔への嫌悪が強い場合、他人と比べる癖が背後にあることも多いです。比べる癖のシリーズ も、合わせて読んでみてください。
写真を見返す頻度を自分で設計する
スマホのフォルダを開けば、過去の自分の写真がいくらでも出てきます。本人がぼんやりしているときに、フォルダをスクロールして、過去の自分を延々と眺めることがあります。これが、本人にとって、重い時間になりがちです。
写真は、見たいときに見るものです。気晴らしのつもりでスクロールすると、見ているうちに本人の顔の細部を粗探しする時間に、変わってしまいます。本人が、自分の写真フォルダを見る頻度を、自分で設計する練習を、ここから始めてみます。
「映え」ではない写真を意識的に残す
SNSに上げない写真、本人が好きなものや日常を写した写真、本人の顔が写っていない写真。これらを意識的に増やしていくと、本人の写真フォルダの構成が、変わります。本人が自分のフォルダを開いたときに、見えてくる風景が、本人にやさしくなります。
「映え」ではない写真は、評価されません。本人だけが意味を分かる、地味な写真です。地味な写真の蓄積が、本人の生活の手触りを記録していきます。これは、本人の自己像にとっての、ささやかな避難所になります。
他人から渡される写真への構え
友人や家族から、本人が写っている写真を送られてくることがあります。送る側は好意で送ってくれていますが、受け取った本人は、必ずしも嬉しいと感じない場合もあります。ここで、無理に喜ばなくて、構いません。
受け取って、見て、必要なら保存し、見たくなければそっとフォルダの奥に置く。それで、十分です。送ってくれた相手に、いちいち感情を返さなくて、いいです。本人の中で静かに処理することも、本人の選択です。
家族写真の中の自分にも同じ仕組みが働く
七五三、入学式、結婚式、家族旅行。家族写真の中の自分を見ると、写真の自分への違和感が、家族の歴史の中での自分の違和感とつながって、二重に重く感じられることがあります。家族写真は、本人だけの写真ではなく、家族との関係の記録なので、簡単に削除しにくいです。
こうした写真は、本人の顔ではなく、家族関係の記録として、見直す視点を持つと、見やすくなります。本人の顔の評価から、その日の家族の様子の観察へ、視点を切り替えていきます。これは、すぐにはできなくても、繰り返すうちに、わずかに角度が変わっていきます。
第3話への接続
次回は、ルッキズムを社会構造として言葉にします。本人の感じ方を、社会の側に置き直すための語彙を、整理していきます。
無料公開はここまで、次回からは会員限定です。
本記事についての注意
本記事は、写真の自分への違和感と心の側の整理を扱う読み物であり、医療判断を代替するものではありません。写真の自分への嫌悪が強く、外出や対人関係に大きな影響が出ている場合、身体醜形障害(BDD)や摂食障害の可能性も含めて、精神科・心療内科の受診を検討してください。地域の保健センター、公的相談窓口、日本摂食障害協会も活用できます。本記事は美容医療や痩身を推奨するものではなく、特定の容姿基準を肯定するものでもありません。
今回のまとめ
- 写真は他人視点の正像で鏡の反転像と違う
- レンズと距離で同じ顔が別人のように映る
- 写真は一瞬を凍らせるため動いている本人と別物
- 本人は自分のふつうの写真と他人のいい写真を比べている
- 嫌な写真は削除していい
- SNSのタグ付け承認は本人の権利
- 動画・音声の違和感も同じ仕組み
- 「変な顔」を「他人視点」に言い換える
- 「写真うつりが悪い」の言葉は下ろしていい
- 加工アプリの常用は「素」の感覚を壊す
- 記念写真と日常写真は別に扱う
- 撮影される場での消耗対策を持っておく
- 写真を資料として観察する練習
- 嫌悪が強く生活に影響する場合は専門窓口へ