あの人の痛みが、自分の痛みだった頃
最初の頃を、思い出してみてください。
あの人が苦しんでいると知ったとき──あるいは、苦しみが目に見えるようになったとき──あなたの内側にも痛みが走りました。胸が締め付けられた。涙が出た。眠れなくなった。あの人のことが頭から離れなかった。あの人が泣いているのを見たとき、自分の目にも涙が浮かんだ。あの人が怒っているのを聞いたとき、自分の体も緊張した。
それは共感です。他者の感情を、あたかも自分自身のもののように感じ取る能力。──共感は、人間関係の根幹を支える心理的機能であり、大切な人の傍にい続けようとするあなたを動かしていた力の源泉です。
しかし、ある時点から、何かが変わり始めなかったでしょうか。
あの人が泣いているのに、胸が締め付けられなくなった。あの人の状態が悪化したと聞いても、以前ほど動揺しなくなった。──あるいは、まったく動揺しなくなった。あの人のことを心配しなくなったわけではない。頭では「大変なことだ」とわかっている。しかし、感情が追いつかない。以前は自然に湧き上がっていた感情が、まるでスイッチを切られたかのように沈黙している。
この変化に気づいたとき、あなたは自分自身に恐怖を感じたかもしれません。「自分は冷たい人間になってしまったのだろうか」「あの人をもう愛していないのだろうか」「人としておかしくなっているのではないか」。
──安心してください、と言いたいところですが、「安心してください」で片付けられる問題ではありません。この回では、共感のメカニズムとそのコストを構造的に理解し、感じすぎることと感じなくなることが同じ回路の異なる現れであることを明らかにします。
共感の二つの回路──感情的共感と認知的共感
神経科学者ジャン・デセティは、共感を二つの異なる──しかし相互に関連する──システムとして理論化しました(Decety & Jackson, 2004)。
感情的共感(affective empathy)。他者の感情を自動的に、しばしば身体的に共有するシステム。他者が痛みを受けているのを見たとき、自分の脳の痛み関連領域が活性化する──いわゆるミラーニューロン系の働きを含む経路です。感情的共感は速く、無意識的で、制御が難しい。赤ちゃんが隣の赤ちゃんの泣き声に呼応して泣き出すのは、感情的共感の原初的な形態です。
認知的共感(cognitive empathy)。他者の感情や視点を理解するシステム。「あの人は今、こういう理由で悲しんでいるのだろう」と推測する能力。認知的共感は、感情的共感より遅く、意識的で、前頭前野の活動と関連しています。心理学では「メンタライゼーション」「心の理論」とも呼ばれる機能です。
健全な共感は、この二つのシステムのバランスの上に成り立っています。感情的共感だけでは──相手の痛みに圧倒されて動けなくなります。認知的共感だけでは──相手の状況を「理解」はしていても、温かみのある応答ができません。
大切な人が壊れていくのを見ている人において生じるのは、このバランスの崩壊です。
感情的共感の過負荷──「感じすぎる」段階
シリーズの最初のほう──あの人の苦しみに気づいてから、比較的早い時期──には、感情的共感が優勢に働きます。あの人の感情が、フィルターを通さずに流れ込んでくる。あの人の不安があなたの不安になり、あの人の絶望があなたの絶望になる。
心理学者のチャールズ・フィグリーは、この状態を「二次的外傷性ストレス(secondary traumatic stress)」と呼びました(Figley, 1995)。一次的外傷──直接的なトラウマ体験──に対して、二次的外傷は他者のトラウマに共感的に曝露されることによって生じるストレス反応です。
二次的外傷性ストレスの特徴は、一次的PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状と驚くほど似ていることです。
侵入症状。あの人の苦しむ姿が不意に脳裏に浮かぶ。あの人の言葉が頭の中で繰り返される。あの人に関する悪夢を見る。
回避症状。あの人のことを考えないようにする。あの人がいる場所を避ける。あの人の話題が出ると話を変えたくなる。
過覚醒症状。常に緊張している。小さな物音にびくっとする。眠れない。集中できない。
第3回で述べた身体症状──慢性的な疲労、頭痛、胃の不調──は、この二次的外傷性ストレスの身体的表現として理解することもできます。あなたの身体は、あの人の苦しみに共感し続けた結果として、自分自身がトラウマを受けた人と同様の反応を示しているのです。
共感のコストは「見えない」──可視化されない消耗
共感のコストが厄介なのは、それが外から見えにくいことです。
物理的な労働──重い荷物を運ぶ、長時間立ち続ける──の消耗は、本人にも周囲にも比較的わかりやすい。筋肉痛があり、疲労感があり、「今日はよく働いた」と認識できます。しかし、共感の消耗は目に見えません。ただ傍にいて、話を聞いて、気遣っている──それだけのように見えます。
見ている側の人自身も、この消耗を過小評価しがちです。「私は何もしていない」「ただ話を聞いているだけ」「あの人のように苦しんでいるわけではない」。──しかし、「ただ聞いている」ことの心理的コストは、外見から想像されるよりはるかに大きい。他者の苦痛を受け止め続けることは、脳の感情処理系に持続的な負荷をかける作業であり、身体を動かさなくても、エネルギーは確実に消費されています。
援助職の研究で明らかになっていることがあります。セラピストやカウンセラーが「共感疲労」を起こしやすいのは、セッション中に常に他者の感情世界に身を置くことの累積的なコストが原因です。──そして、見ている側の人の状況は、多くの場合、専門家以上に過酷です。なぜなら、セラピストにはセッションの終わりがありますが、あなたの「セッション」には明確な終了時刻がないからです。24時間、365日、あの人は目の前にいる。共感の回路は常にオンの状態を求められている。
共感疲労──回路の過負荷とシャットダウン
電気回路に過大な電流を流すと、ブレーカーが作動して回路を遮断します。これは回路そのものを保護するための機能です。──人間の共感システムにも、これと類似したメカニズムが存在します。
フィグリーは、援助職(看護師、セラピスト、ソーシャルワーカー)が他者の苦しみに長期間曝露された結果、共感する能力が低下する現象を「共感疲労(compassion fatigue)」と名づけました(Figley, 2002)。
共感疲労は、「思いやりがなくなる」こととは異なります。それは、共感の回路が過負荷状態に達した結果、防衛的にシャットダウンした状態です。ブレーカーが落ちたのです。──あなたが「冷たくなった」のではなく、あなたの共感システムが、これ以上の負荷に耐えられなくなってブレーカーを落とした。それは故障ではなく、保護です。
共感疲労の兆候をいくつか挙げておきます。
感情の平板化。喜びも悲しみも薄くなる。あの人に対してだけでなく、他のすべてのことに対しても。映画を観ても泣かなくなった。友人の良いニュースを聞いても嬉しくない。──感情のボリュームがまるごと下がったかのような状態。
距離感の増大。あの人の話を聞いていても、どこか遠くから観察しているような感覚。「また同じ話だ」と内心で思う自分に気づく。以前は自然に手を差し伸べていたのに、今は意識的に努力しないとそれができない。
皮肉・無関心・苛立ち。「どうせ何をしても変わらない」という諦め。あの人の状態の変化に「またか」と反応する自分。──第4回で述べた怒りとは異なり、これは熱を持った感情ではなく、むしろ感情の灰のようなものです。
自己非難。「こんなことを感じる自分はひどい人間だ」「以前の自分ならもっと優しくできたのに」──共感疲労の症状それ自体が、さらなる罪悪感と自己非難を引き起こす悪循環。
感じすぎることと感じなくなることは、同じスペクトラムの両極である
ここで、このシリーズの核心的な洞察のひとつを提示します。
「感じすぎること」と「感じなくなること」は、対立する現象ではなく、同じ共感回路の異なる段階です。
感情的共感の過負荷(感じすぎる)が長期化すると、防衛的なシャットダウン(感じなくなる)が起こる。──この移行は、意志の問題ではありません。あなたが「感じることをやめよう」と決断したのではなく、あなたの共感システムが自動的に保護モードに入ったのです。
この理解は重要です。なぜなら、「感じなくなった」ことを純粋に道徳的な問題──「自分は冷たい人間だ」──として受け止めてしまうと、出口が見えなくなるからです。道徳の問題であれば、「もっと頑張って感じるようにすべきだ」という結論になりますが、それは──過負荷のブレーカーを無理やり上げて、さらに電流を流そうとするのと同じです。結果は、さらなるシャットダウンか、あるいは回路そのものの損傷です。
感じなくなったことを、まずはあなたの心身が発している限界信号として受け取ってください。それは「あなたは限界を超えている」というメッセージです。そのメッセージに耳を傾けることは、冷たさではなく、正気です。
共感の「持続可能な形」──コンパッション
近年の心理学研究では、共感(empathy)とコンパッション(compassion、慈悲)を区別する視点が注目を集めています(Singer & Klimecki, 2014)。
共感は、他者の感情を共有すること。──あの人が悲しいとき、自分も悲しくなる。あの人が苦しいとき、自分も苦しくなる。
コンパッションは、他者の苦しみを認識し、その軽減を願うこと。──あの人が苦しんでいることを理解し、何かの形で苦しみが和らぐことを願う。しかし、あの人の苦しみを自分のものとして引き受けるのではない。
脳画像研究では、共感とコンパッションは異なる脳領域を活性化させることが示されています。共感は前島皮質や前帯状皮質──苦痛の処理に関わる領域──を活性化させ、コンパッションは内側眼窩前頭皮質や腹側線条体──報酬や親和性に関わる領域──を活性化させます(Klimecki et al., 2013)。
重要な知見は、コンパッションのトレーニングが共感疲労を軽減しうるという点です。つまり、「感じること」のモードを──感情的共感からコンパッションへと──シフトさせることで、他者の苦しみへの「つながり」を維持しながら、過負荷を回避できる可能性がある。
──ただし、ここで注意が必要です。この知見を、「あなたがコンパッションを学べば問題は解決する」というメッセージとして受け取らないでください。第2回で繰り返し述べたように、見ている側の人は「もっと上手にやれば」「正しい方法を知れば」という思考の罠に陥りやすい。コンパッションへのシフトは、それ自体が長いプロセスであり、一朝一夕に達成されるものではありません。──ここでお伝えしたいのは、「感じすぎて疲弊した→もう感じられない→自分はダメだ」という一直線の物語の外に、別のルートがありうるということです。
日常のなかでの小さなシフト──「引き受ける」から「認識する」へ
共感からコンパッションへの移行は、劇的な転換ではありません。それは日常の微細な瞬間に起きる、ごくわずかな内的姿勢の変化です。
あの人が泣いているとき。感情的共感のモードでは、あの人の悲しみがそのままあなたの胸に流れ込んでくる──あなた自身の目にも涙が浮かび、あの人と同じ感情の渦のなかに入っていく。コンパッションのモードでは、あの人が泣いていることを認識し、「この人は今、深い苦しみのなかにいる」と理解し、「この苦しみが和らぐことを願う」──しかし、あの人の涙を自分の涙として引き受けるのではない。
この違いは、外から見ればほとんど区別がつきません。どちらの場合も、あなたはあの人の傍にいて、お茶を入れ、話を聞くかもしれない。──違いは行動ではなく、内的な距離にあります。そして、この内的な距離は、冷たさではありません。むしろ、内的な距離があるからこそ、あの人の傍にい続けることが可能になるのです。共感の渦のなかに完全に入ってしまえば、早晩シャットダウンが起きる。しかし、ほんの半歩だけ外に立っていれば、渦のそばに長くいることができる。
具体的に言えば、あの人と接しているときに──ほんの一瞬でいいので──「今、自分の身体はどう反応しているか」と内側に注意を向けてみること。胸が締め付けられているか。息が浅くなっているか。肩が上がっているか。──そうした身体反応に気づくこと自体が、感情の渦から半歩外に出る行為です。気づいたからといって、感情が消えるわけではありません。しかし、「あの人の苦しみが今、自分の身体にこう影響している」と認識することは、第3回で述べた共感的な神経反応に対する最小限の自律性を取り戻す行為です。
この小さなシフトを、毎回完璧に行う必要はありません。十回のうち一回でも、「ああ、今、自分はあの人の感情を引き受けようとしている」と気づけたら、それは十分な実践です。
共感の境界──どこまでが「自分の感情」なのか
共感の問題を考えるうえで、もう一つ重要なテーマがあります。それは、感情の帰属の問題です。
あの人の傍にいるとき、あなたの内側にさまざまな感情が湧き上がります。不安。悲しみ。怒り。恐怖。──しかし、それらの感情のうち、どこまでが「自分自身の感情」で、どこからが「あの人の感情を引き受けたもの」なのか。──この区別が、時間とともにきわめて曖昧になっていくことがあります。
第2回で触れたボーエンの家族システム理論では、家族成員間の感情的融合(emotional fusion)が高まると、個々の成員が自分の感情と他者の感情を区別することが難しくなると述べられています。あの人が落ち込んでいるとき、あなたも落ち込む。あの人が不安を感じているとき、あなたも不安になる。──これは共感の自然な発露ですが、慢性化すると、あの人がいないときでさえ、あの人の感情の残響が自分のなかで鳴り続けるという状態が生じます。
「自分は何を感じているのか」という問いに答えられなくなる。なぜなら、自分の感情とあの人の感情が混ざり合って、境界が見えなくなっているからです。──感じすぎることの一つの帰結は、この「感情の境界の溶解」です。そして感情の境界が溶解した状態は、第6回で述べた「境界線を引くこと」をさらに困難にします。なぜなら、心理的な境界線を引くためには、まず「ここからが自分で、ここからが相手だ」という区分けが必要だからです。
感情の帰属を少しでも取り戻すためにできることは、小さなことです。たとえば、あの人と過ごした後に、ほんの数分でいいので一人の時間を持ち、「今、自分は何を感じているか」と自分に問うてみる。その答えが明確でなくても構いません。問うこと自体が、感情の帰属を取り戻すための第一歩です。
「感じない」を責めないための三つの視点
最後に、感じなくなった自分を責めそうになったときの視点を三つ、整理しておきます。
第一の視点:それは保護であり、故障ではない。先述のとおり、共感のシャットダウンは、過負荷からあなたを守るための防御反応です。壊れたのではなく、壊れないためにブレーカーが落ちた。──ブレーカーを責めても意味がありません。
第二の視点:感じなくなっただけで、愛はなくなっていない。共感疲労は感情の表出を阻害しますが、あなたがあの人を大切に思っていること自体を消すものではありません。腕が疲れて荷物を持てなくなっても、荷物の大切さは変わらない。──感情が枯渇したことと、関係の意味が消失したことは、同じではありません。
第三の視点:回復は可能だが、そのためには負荷の軽減が先。共感の回路は、負荷が軽減されれば──つまり、第6回で述べた境界線の確保や、第3回で述べた身体的なケアが行われれば──徐々に回復しうるものです。しかし、負荷がかかり続けた状態で、意志の力で共感を「復活」させようとしても、それは不可能です。──回復のためには、まず負荷を減らすこと。これは怠けでも逃げでもなく、回復の前提条件です。
今回のまとめ
- 共感には二つの回路がある──感情的共感(自動的に感情を共有する)と認知的共感(理解する)。健全な共感はこの二つのバランスの上に成り立つ
- 大切な人の苦しみへの感情的共感が過負荷になると、二次的外傷性ストレス(フィグリー)が生じる──侵入、回避、過覚醒の症状は一次的PTSDと類似する
- 過負荷が長期化すると、共感の回路は防衛的にシャットダウンする──これが共感疲労であり、感情の平板化、距離感の増大、皮肉・無関心として現れる
- 「感じすぎる」と「感じなくなる」は対立ではなく、同じ回路の異なる段階である。感じなくなったのは冷たくなったのではなく、限界信号である
- 共感(感情の共有)とコンパッション(苦しみの認識と軽減の願い)は異なる神経基盤を持ち、コンパッションへのシフトが共感疲労を軽減しうる可能性がある
- 感じなくなった自分を責める必要はない──それは保護であり故障ではなく、愛が消えたわけでもなく、負荷が軽減されれば回復しうるものである