あの人は、まだここにいる
あの人は消えたわけではありません。
毎朝、同じ家で目を覚ます。食事のテーブルに──来るときもあれば、来ないときもあるけれど──座る。声をかければ、返事はある。もっとも、以前のようにこちらを見て答えるのではなく、どこか遠くを見たまま短い言葉を返すことが増えましたが。
あの人は、まだここにいます。物理的に、確かに存在しています。生きています。呼吸をしています。同じ空間を共有しています。
しかし、あなたのなかには──言葉にするのが難しい、しかし確かにそこにある──ある感覚が育っています。あの人はここにいる。でも、かつてのあの人は、もういない。
かつて一緒に笑ったあの人。将来の計画を語り合ったあの人。いたずらのように冗談を言って、こちらの緊張をほぐしてくれたあの人。困ったときに相談できたあの人。──そのあの人は、少しずつ、しかし確実に、どこかに去ってしまった。目の前にいる人は同じ名前で、同じ顔で、しかし何かが決定的に異なっている。
この経験は、通常の「喪失」とは異なるものです。通常の喪失──死別、離別──には、残酷ではあっても明確さがあります。あの人はもういない。その事実は覆らない。だからこそ、悲嘆のプロセスが始まりうる。しかし、あなたの場合は違います。あの人はいるのに、いない。この宙吊りのなかで、あなたの悲しみは始まることも、完了することもできない。
ポーリン・ボスの「あいまいな喪失」
心理学者ポーリン・ボスは、1970年代からこの宙吊り状態を研究し、「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を体系化しました(Boss, 1999)。
ボスは、あいまいな喪失に二つの型を区別しています。
第一の型:身体的に不在だが心理的には存在する。行方不明者の家族、戦地に赴いた人の家族、離散家族。──物理的にはいないが、心のなかではまだ「いる」。
第二の型:身体的には存在するが心理的に不在である。認知症の家族介護者、精神疾患の影響で「以前のその人」ではなくなった人の傍にいる人。──物理的にはいるのに、心理的には「いない」。
大切な人が壊れていくのを見ている人の多くは、この第二の型に該当します。あの人は目の前にいる。同じ家に住んでいる。しかし、以前のあの人──あなたが愛し、信頼し、一緒に未来を思い描いた人──との心理的な接続が、部分的にあるいは全面的に失われている。
ボスの理論が画期的だったのは、この状態を「悲嘆の一形態」として認めたことです。それまで、悲嘆は死別に結びつけて理解されることがほとんどでした。しかしボスは、喪失が明確でなくても──むしろ、喪失が明確でないからこそ──深い苦しみが生じることを理論化したのです。
あいまいさが嘆くことを許さない
あいまいな喪失の核心的な困難は、悲嘆のプロセスが開始できないことにあります。
通常の喪失──例えば死別──には、社会的に認められた悲嘆の枠組みがあります。葬儀があり、弔問があり、「ご愁傷さまです」という言葉があり、喪に服す期間がある。これらはすべて、「あなたは何かを失った。悲しんでいい」という社会的承認です。
しかし、あいまいな喪失にはそうした枠組みがありません。あの人はまだ生きているのだから、悲しむのは「おかしい」。あの人はまだ回復するかもしれないのだから、嘆くのは「早すぎる」。あの人は目の前にいるのだから、失ったと感じるのは「おおげさ」。──社会的にも、そして何より自分自身のなかでも、悲嘆が正当化されないのです。
社会学者ケネス・ドカは、社会的に認められない悲嘆を「公認されない悲嘆(disenfranchised grief)」と呼びました(Doka, 1989)。悲嘆を感じる権利を社会から明示的に与えられないとき、人は自分の悲しみの正当性を疑い始めます。「自分は悲しんでいいのだろうか」。「こんなことで泣くのはおかしいのではないか」。──この疑いが、悲嘆を語ることを阻み、悲嘆の処理を止めてしまいます。
ここで、シリーズを通じて繰り返し現れている構造に気づかれるかもしれません。第1回の「語れなさの三重の封印」、第2回の「無力感→恥」、第4回の「怒り→罪悪感」。──いずれも、見ている側の人の感情が、感じることを封じるメカニズムによって封印されるという同じ構造を持っています。あいまいな喪失における悲嘆の封印も、その延長線上にあります。
「良くなるかもしれない」と「もう戻らないかもしれない」のあいだ
あいまいな喪失のもう一つの困難は、希望と絶望のあいだの揺動です。
あの人の状態が少し良くなった日──笑顔が見えた、外出できた、以前のように会話ができた──には、希望が灯ります。「やっぱり戻ってきてくれるかもしれない」「良くなるかもしれない」。この希望は、しばしば痛みを伴います。なぜなら、希望が高まった分だけ、次に状態が悪化したときの失望が深くなるからです。
逆に、状態が悪化した日──ふたたび閉じこもった、また飲んだ、言葉が通じなくなった──には、絶望が押し寄せます。「もう元には戻らないのだ」「これが永遠に続くのだ」。──しかし、この絶望もまた確定ではありません。明日はまた少し良いかもしれない。
ボスはこの揺動を、あいまいな喪失に固有の苦しみとして強調しています。通常の喪失では、時間とともに現実を受け入れるプロセスが──ゆっくりであっても──進行します。しかしあいまいな喪失では、「受け入れるべき現実」そのものが揺れ動く。今日の現実と明日の現実が一致しない。良い日と悪い日の振幅のなかで、何を基準にすればいいのかがわからない。
この揺動は、心理的には「認知的凍結」を引き起こしやすい。何が現実かがわからないため、将来の計画が立てられない。「来月の旅行──あの人は行けるだろうか」「転職──あの人の状態を考えると、今は無理だろうか」「子ども──このまま作っていいのだろうか」。──日常的な判断から人生の大きな決定まで、すべてがあの人の不確実な状態に依存してしまう。第2回で述べた学習性無力感と合わせて、この認知的凍結は見ている側の人の行動全般を麻痺させうるものです。
予期悲嘆──まだ失っていないのに嘆いている
あいまいな喪失と関連する重要な概念に、「予期悲嘆(anticipatory grief)」があります(Rando, 1986)。これは、喪失がまだ完了していない段階──しかし喪失の予感がある段階──で始まる悲嘆のプロセスです。
ホスピスケアの文脈では、末期患者の家族がまだ患者が存命中に悲嘆を始めることが知られています。これと同様に、大切な人が壊れていくのを見ている人は、あの人がまだここにいるにもかかわらず、すでに失いつつあるものへの嘆きを経験していることがあります。
予期悲嘆には複雑な側面があります。一方では、予期悲嘆は心理的準備の機能を持つことがあります。来たるべき喪失に対して、段階的に心理的な距離を作り始める。他方では、予期悲嘆があまりに長期化すると、「嘆き疲れ」が生じます。まだ失っていないのに、すでに嘆き続けて疲弊している。そして、実際に喪失が完了したとき──つまり、あの人との関係が本当に終わったとき、あるいはあの人が亡くなったとき──には、すでに嘆く力が残っていないことがある。
見ている側の人の一部は、この予期悲嘆と、あいまいな喪失固有の揺動とのあいだに引き裂かれています。「もう終わったこととして悲しみたい」という奥深い衝動と、「まだ終わっていない、希望はある」という認識のあいだ。この引き裂きは、しばしば罪悪感として経験されます。「まだ生きているのに、まるであの人がいなくなったかのように悲しんでいる自分は、ひどい人間だ」。──こうした罪悪感のパターンは、第4回で述べた怒りへの罪悪感と構造的に同じです。
「いるのにいない」の日常風景
理論を離れて、「いるのにいない」が日常のなかでどのように経験されているかを描いてみます。
食事。以前は一緒に食卓を囲んでいた。今は、あの人が食卓に来るかどうかがわからない。来たとしても、会話はほとんどない。テレビのニュースだけが室内に流れている。あなたは食事を作り、あの人の分も用意し、食べるかどうかわからないまま時間を過ごす。──食卓の上に二人分の食器があるのに、食事は一人で取っているような感覚。
夜。以前は寝る前にその日の出来事を話し合っていた。今は、あの人はすでに眠っているか、あるいはまだ起きているが話しかけても応答が少ない。同じベッドにいるのに、距離が果てしなく遠い。──物理的な近さが、心理的な不在をかえって際立たせる。
記念日。誕生日。結婚記念日。以前はお互いを祝い合っていた。今は、「祝う」こと自体が場違いに感じられる。しかし無視することもできない。中途半端に「おめでとう」と言って、中途半端な反応を受け取り、中途半端な一日が過ぎていく。
こうした日常の風景のひとつひとつは、小さな喪失です。そして、小さな喪失の蓄積は、大きな悲嘆と同等のインパクトを持ちうることを、ボスの研究は示しています。
あいまいな喪失と「誰にも言えない」孤立
あいまいな喪失のもう一つの深刻な影響は、社会的孤立です。
通常の喪失──例えば死別──では、周囲の人々が「あなたは今、辛い時期にいる」と認識してくれます。友人が声をかけてくれる。職場が配慮してくれる。悲しみを語れる場が──不完全であっても──用意されています。
しかし、あいまいな喪失を経験している人がその苦しみを他者に語ろうとすると、しばしば困惑に出会います。「でも、あの人は元気なんでしょう?」「生きているんだから、いいじゃない」「部屋から出てこないくらい、そんなに大変?」。──悪意からではありません。あいまいな喪失を体験したことのない人にとって、「いるのにいない」という感覚は想像しにくいのです。
結果として、見ている側の人は次第に語ることを諦めます。「説明してもわかってもらえない」「かえって『おおげさ』と思われる」「あの人のプライベートを他人に話すのは裏切りだ」。──第1回で述べた「三重の封印」の構造が、ここでも作動しています。語れなさが孤立を生み、孤立が悲嘆の処理を妨げ、処理されない悲嘆がさらなる心理的負荷を生む。
ボスは、あいまいな喪失を経験している人にとって、同じ経験を持つ人々とつながることがきわめて重要であると述べています。「あのね、私もそうだった」という一言が、何ヶ月ぶんの孤立を柔らげることがある。──ただし、同じ経験を持つ人の存在を求めることすら、「大げさにしている」という自責の対象になりうるのが、この問題の厄介なところです。
あいまいな喪失のなかの「時間感覚」の変容
あいまいな喪失が長期化すると、時間の感覚そのものが変容します。
通常の生活では、時間は「過去→現在→未来」と線形に流れ、その流れのなかで人は計画を立て、目標を設定し、変化を感じ取ります。しかし、あいまいな喪失のなかでは、この線形性が失われます。毎日が同じように見える。変化があっても、それが「良い方向への変化」なのか「一時的な揺らぎ」なのかが判別できない。
「いつからこうだったのか」という問いに、明確に答えられないことに気づくかもしれません。あの人の変化は──多くの場合──ある日突然始まったのではなく、徐々に、じわじわと進行したからです。始まりが特定できないということは、「ここまで来た距離」が測れないということでもあります。そして、距離が測れなければ、「あとどれくらいか」も見積もれない。
この時間感覚の変容は、第2回で述べた学習性無力感を強化します。出口が見えないのは、出口がないからではなく、自分がどこにいるのかがわからないからです。地図のない旅のなかで、「あとどれくらい歩けばいいのか」を尋ねても誰も答えてくれない。──この不確実さのなかに長期間いることは、それ自体がきわめて大きな心理的負荷です。
完了しない悲嘆をどう生きるか
ボスは、あいまいな喪失に対する「解決」を提供しません。それは誠実な態度です。あいまいさが続く限り、悲嘆は完了しません。そして、大切な人が苦しんでいる限り、あいまいさは続きます。
ボスが代わりに提案するのは、「あいまいさに耐えること(tolerating ambiguity)」を学ぶというアプローチです。これは、あいまいさを好きになることでも、受け入れることでもありません。ただ、あいまいさのなかにいながら完全に凍結しないための、最低限の心理的足場を確保するということです。
具体的には、ボスは以下のような視点を提案しています。
「両方が同時に真実でありうる」という認識を持つ。あの人はまだここにいる。そして同時に、かつてのあの人はもういない。この二つは矛盾していますが、両方とも真実です。どちらか一方だけを選ぶ必要はありません。
自分なりの儀式を作る。公式の悲嘆の枠組みがないなら、非公式の枠組みを作る。以前の関係で大切だったものを象徴的に認める。日記に書く。信頼できる人に語る。──小さな儀式が、言語化されていない悲嘆に居場所を与えます。
「もう十分に悲しんだ」と外から決めさせない。あいまいな喪失の悲嘆は、通常の悲嘆のタイムラインに従いません。「もう前を向いたら」「いつまで悲しんでいるの」──こうした周囲の声は、善意であっても、あなたの悲嘆のプロセスには当てはまらない可能性があります。あいまいさが続く限り、悲嘆が続くのは自然なことです。
ボスは最後に、きわめて重要なことを付け加えています。あいまいな喪失のなかでも、人はまだ意味を見出すことができる。状況をコントロールすることはできなくても、その状況に対する自分の意味づけは、自分のものです。──この点については、第9回と第10回でさらに深く掘り下げます。
今回のまとめ
- 「いるのにいない」──あの人は物理的にはここにいるが、かつてのあの人との心理的接続は失われている。ボスはこの状態を「あいまいな喪失」と名づけた
- あいまいな喪失では悲嘆のプロセスが開始できない──喪失が確定していないため、悲しむ「権利」が社会的にも内面的にも認められにくい(公認されない悲嘆)
- 希望と絶望の揺動──「良くなるかもしれない」と「もう戻らないかもしれない」のあいだで、認知的凍結や将来計画の麻痺が生じる
- 予期悲嘆──まだ失っていないのに、すでに失いつつあるものへの嘆きが始まっている。長期化すると「嘆き疲れ」が生じる
- 「いるのにいない」は日常の隅々に──食卓、夜、記念日。小さな喪失の蓄積が大きな悲嘆と同等のインパクトを持つ
- ボスは「解決」ではなく「あいまいさに耐えること」を提案する──「両方が同時に真実でありうる」という認識、自分なりの儀式、外からのタイムラインに従わないこと
- 状況をコントロールすることはできなくても、その状況に対する意味づけは自分のものである