プロフィール写真を選ぶのに、30分かかった
SNSのプロフィール写真を変えようとして、30分以上迷ったことはないでしょうか。何枚も写真を見返して、「これは自分っぽくない」「これは盛りすぎている」「これは暗い印象かもしれない」。結局どれを選べばいいかわからなくなって、変更をやめてしまう。
前回、場面ごとに変わる自分について考えました。SNSは、その「場面」の中でもかなり特殊な性質を持っています。リアルの場面では、その場の空気に合わせて自然に切り替わる。でもSNSでは、「見せたい自分」を自分で意識的に選んで投稿する。編集し、加工し、並べ替える。その作業の中で、「見せている自分」と「見せていない自分」の間に、独特の距離が生まれるのです。
このシリーズの前半で、「自分がわからない」という感覚にはいくつもの層があると書きました。SNSは、その「わからなさ」に新しい層を一つ追加してきます。ネット上の自分と、画面の外の自分。今回は、この二つの間にある距離について、少し立ち止まって考えてみます。
なお、このテーマは「デジタルと心地よく暮らす」シリーズの第6回(SNSの距離感)とも接続しています。そちらは「デジタル疲れ」の観点から、こちらは「自分がわからない」の観点から、同じ現象の別の側面を見ている形になります。
SNSは「編集された自分」を見せる場所
SNSに投稿するとき、私たちは無意識に編集をしています。おしゃれなカフェの写真は載せるけれど、散らかった部屋は載せない。充実した休日は投稿するけれど、何もしなかった土曜日は投稿しない。楽しそうな食事会の写真をシェアして、帰宅後にぐったりしている自分のことは書かない。
これは嘘をついているわけではありません。見せたい部分を選んで見せるのは、対面のコミュニケーションでもやっていることです。ただ、SNSでは「選ぶ」プロセスが意識的になりやすい。投稿する前に「これを載せたらどう見られるだろう」と考える時間がある。その時間が、見せる自分と見せない自分の線引きをくっきりさせてしまうのです。
問題は、編集を重ねるうちに、「編集された自分」のほうが実際の自分より立派に見え始めること。SNS上の自分にはちょっとしたキラキラがまぶしてある。でも現実の自分は、部屋着でソファに横になっている。この二つの間の距離が広がると、「SNSの自分は嘘だ」という罪悪感が生まれることがあります。逆に、「SNSの自分のほうが本当のはずだ」と思い込もうとして、現実の自分を否定してしまうこともある。どちらも、「自分がわからない」感覚を強める方向に作用します。
「いいね」が自分の輪郭になるとき
SNSで「いいね」やコメントをもらうのは嬉しいことです。それは自然な反応でしょう。でも、その「いいね」が自分の行動を決め始めると、少し事情が変わってきます。
「この投稿は反応が良かったから、この路線でいこう」「この写真はあまり反応がなかったから、もうやめよう」。フィードバックに合わせて投稿を調整しているうちに、SNS上の自分が「フォロワーが求める自分」に寄っていく。第5回で話した「相手の正解を探してしまう」構造が、ここでも起きています。対面では一人の相手に合わせるだけだったものが、SNSでは不特定多数に合わせる形になる。合わせる範囲が広がった分、自分の本来の反応はますます見えにくくなるのです。
「いいね」の数が自分の価値を測る基準になると、投稿するたびに評価を受けている感覚になる。数が多ければ安心し、少なければ不安になる。本来、SNSは自分を表現する場であって、自分が評価される場ではないはずです。でも、数字が目に入る以上、完全に無視するのは難しい。だからこそ、「いいねの数と自分の価値は関係ない」と理解するだけでなく、定期的にSNSから距離を取って、数字のない空間で自分の気持ちを確認する時間が大切になってくるのです。
もう一つ、「いいね」にまつわる要素があります。それは、「いいねがもらえなかった投稿」を削除したくなる心理です。反応が少ない投稿を消すことは、「評価されなかった自分」をなかったことにしたい気持ちの表れです。でも、その投稿をしたときの自分も本物です。反応が少なかったことと、その投稿の価値は別の問題。「いいねが少なくても、投稿した自分は確かにあった」と思えるかどうかが、SNSとの付き合い方を左右します。
他人の「完成された姿」と比べてしまう
SNSを見ていると、他の人はみんな自分をしっかり持っているように見えます。好きなものがはっきりしていて、ライフスタイルに軸があって、発信に一貫性がある。自分だけがぼんやりしている気がしてくる。
でも、あなたが見ているのは相手の「編集済みの姿」です。自分のSNSを編集しているように、相手もまた編集している。迷う時間、落ち込む夜、何も思いつかない日──そういう部分は投稿されていません。タイムラインに流れてくるのは、選び抜かれたハイライトだけです。
第4回で「やりたいことがある人は迷わず進んでいるように見える」と書きました。SNSでは、その錯覚がさらに強まります。迷っている姿が表示されないからです。見えるのは「やりたいことを見つけた」あとの姿、「好きなものに囲まれた」あとの姿。プロセスではなく結果だけが目に入る。その結果だけを見て、「あの人はすごい、自分はダメだ」と感じてしまう。
自分は裏側も含めた「全体」を知っている。でも相手は「表面」しか見えない。自分の舞台裏と、相手のステージ上を比べるのは、公平な比較ではありません。同じ条件での勝負ではないのに、負けた気分になってしまう。比べて落ち込むのは自然な反応ですが、それはあなたが劣っているからではないのです。
SNSでの自分も「本当の自分」の一部
ここまで読むと、「SNSの自分は偽物で、画面の外の自分が本物」と結論づけたくなるかもしれません。でも、そう単純でもないのです。
第6回で「すべての面が自分」と書きました。これはSNSにも当てはまります。投稿するとき、あなたは何を見せるかを選んでいる。その「選ぶ」行為自体に、あなたの価値観が映っています。「こういう自分を見せたい」「こういうことを伝えたい」──そこには感性や美意識が表れているのです。
おしゃれなカフェの写真を選ぶ人は、美しいものに反応する感性を持っている。日常の何気ない一コマを投稿する人は、ありのままを大事にしたい気持ちがある。何を投稿し、何を投稿しないかという選択の積み重ねに、あなた自身が表れています。投稿した内容は嘘ではない。ただ、全体ではないだけです。
だから、「SNSの自分は嘘だ」と全否定する必要はない。同時に、「SNSの自分だけが本当の自分」だと思い込む必要もない。SNSの自分は、画面の外の自分という全体の中の一つの面。どちらも本当であり、どちらだけでは完全ではない。そう思えると、SNSとの付き合い方が少し楽になるかもしれません。
画面から離れる時間の意味
SNSの影響をゼロにすることは、現代の生活では難しいでしょう。連絡手段として必要な人もいるし、仕事で使っている人もいる。だから「SNSをやめましょう」と言うつもりはありません。
ただ、意識的に画面から離れる時間を持つことには大きな意味があります。SNSを見ていないとき、自分は何を感じているのか。誰かの投稿と比べる必要がない時間に、自分の気持ちはどう動くのか。それを感じ取るためには、画面のない時間が要ります。
第2回で、好きなものを探すときに「余白」が必要だと書きました。SNSからの距離もまた、内側の声を聞くための余白になります。タイムラインの情報が常に流れ込んでいると、自分の感覚が他者の発信に上書きされやすい。画面を閉じたときに初めて、「自分は今、何を感じているのか」に耳を澄ませる余地が生まれるのです。
通知をオフにしてみる。朝起きて最初にSNSを開く習慣を一日だけやめてみる。寝る前の30分はスマートフォンを別の部屋に置いてみる。こうした小さな実験で、「画面のない時間の自分」と出会い直すことができます。「いいね」もフォロワー数も関係のない、素の状態の自分に触れる時間を作ること。それが、SNSと健やかに付き合うための土台になります。
もちろん、画面を離れた時間に「やっぱり寂しい」と感じる人もいるでしょう。それも立派な自己理解です。「SNSを見ていないと寂しい」という情報は、自分が人とのつながりを大切にしていることの証拠です。
「デジタルの自分」という新しい場面
第6回で「場面ごとに変わる自分はすべて本物」と書きました。SNSは、そこに「デジタルの場面」という新しいレイヤーを一つ加えます。対面では声のトーンや表情が自動的に場を調整してくれますが、SNSではテキストと画像だけで自分を表現しなければなりません。情報量が限られる分、「何を選ぶか」の比重が大きくなる。
この選択の比重の大きさが、SNSでの自分を「作り物」と感じさせやすいのです。でも、対面だって無意識に言葉を選び、表情を調整しています。SNSではその「選ぶ」がより意識的になるだけで、本質的には同じ適応のプロセスです。意識的に選んでいるからといって、それが嘘になるわけではありません。
ただし、デジタルの場面には「編集の時間がある」という特殊性があります。対面では反応は即時ですが、SNSでは投稿前に何度も書き直せる。この編集の余地が、完璧を目指す気持ちを刺激し、「ありのままの自分」との距離を広げてしまうことがある。編集する自分も本物だけれど、編集しなくてもいい場所があることを忘れないでいたい。
フォローリストが「自分」を物語る
SNSで誰をフォローしているかは、意外と自分を映しています。おしゃれな暮らしのアカウント、料理の動画、猫の写真、ニュースメディア、趣味のコミュニティ。フォローリストは、あなたが「見たいもの」の集まりであり、無意識の関心の地図です。
たまにフォローリストを眺めてみてください。「なぜこのアカウントをフォローしたんだろう」と考えると、当時の自分の関心が見えてきます。もう興味がなくなったアカウントがあれば、自分の関心が変化した証拠です。この変化への気づきも、自分を知る手がかりになります。
逆に、フォローしていないジャンルも面白い。「なぜこれには興味を持たなかったのか」を考えることで、自分の関心の輪郭がより鮮明になる。フォローリストは、自己分析のつもりで作ったものではないからこそ、かえって正直な自分が映っているのです。
SNSを一晩やめてみた週末
金曜日の夜、試しにSNSのアプリを画面の奥のフォルダに移動してみた場面を想像してください。削除するほどの覚悟はないけれど、すぐに開けない場所に置いた。
土曜の朝、いつもの習慣で無意識にスマートフォンを手に取る。でも、すぐにSNSが開けない。少し手持ち無沙汰になる。仕方なくコーヒーを入れて、窓の外を眺める。すると不思議なことに、いつもの景色が少し違って見える。誰かに共有するための風景ではなく、自分だけが見ている風景。
一日の終わり、SNSなしで過ごしてみて何を感じたか。物足りなかったかもしれない。意外と平気だったかもしれない。どちらの反応にも、自分の情報が入っています。物足りなさの中身は何か。平気だったのはなぜか。その振り返りが、SNSとの距離感を自分で調整する手がかりになります。
「SNS断食」ではなく「SNS観察」のすすめ
SNSを完全にやめる「デジタルデトックス」は、ハードルが高いかもしれません。もう少し現実的な方法として、「SNS観察」があります。いつも通りSNSを使いながら、自分の反応をメモしてみる。
「この投稿を見て羨ましいと感じた」「この写真を見てホッとした」「この人のストーリーを見てイライラした」。使い方を変えるのではなく、使っているときの自分を観察するだけ。一週間続けると、「自分がSNSで何を感じているか」のパターンが見えてきます。
そのパターンの中に、自分を知る手がかりがあります。羨ましいと感じるのは、そこに自分が望んでいるものがあるから。イライラするのは、自分の価値観と合わないものがあるから。SNSの使い方をそのまま自己理解のツールに変える。これなら、やめる必要はありません。
画面の向こう側の自分と、こちら側の自分
SNSとの付き合い方は、時間とともに変わっていくものです。10代の頃の使い方と、30代の使い方は違う。それは当然のことで、自分の変化に合わせて使い方を調整していけばいいのです。
今の時点で「SNSに疲れている」なら、それは距離を見直す時期が来ているサイン。でも、「SNSを楽しめている」なら、無理にやめる必要はない。大事なのは、SNSとの関係を定期的に棚卸しすること。「画面の向こうの自分」と「こちら側の自分」が、あまりに遠く離れていないかどうかを確認すること。
距離が近ければ、SNSはゆるやかな自己表現の場になる。離れすぎていたら、少し使い方を変えてみる。この調整ができれば、SNSは「自分を見失わせるもの」ではなく、「自分を知る手がかりの一つ」になります。
「見られている自分」と「見ている自分」
SNSでは、自分は常に「見られる側」にいるように感じます。投稿すれば誰かに見られ、プロフィールは公開され、反応が数値化される。この「見られている感覚」が常にあると、自分を内側から感じることが難しくなります。
でも、SNSを使っているとき、あなたは同時に「見ている側」でもある。他の人の投稿を見て、反応し、考えている。その「見ている自分」の反応の中にこそ、本当の自分のヒントがある。何に反応したか、何をスクロールで飛ばしたか、何に時間をかけて読んだか。
「見られている自分」から一度意識を外して、「見ている自分」に注目してみてください。そこには、フォロワーの目とは無関係な、あなた自身の関心と価値観が映っています。SNSとの関係で最も大切なのは、「見られている自分」ではなく「見ている自分」に気づくことかもしれません。
今回のまとめ
- SNSは「編集された自分」を見せる場所であり、それ自体は嘘ではないが全体でもない。
- 「いいね」の数が自分の価値基準になると、SNS上の自分が「求められる自分」に寄っていく。
- 他人の「編集後の姿」と自分の「裏側含む全体」を比べるのは、公平な比較ではない。
- SNSでの自分も本当の自分の一部。ただし、それだけが自分ではない。
- 画面から離れる時間は、自分の内側の声を聞くための大切な余白になる。
次回の第8回では、「前の自分」と「今の自分」がつながらない感覚について考えます。昔の自分を振り返ったとき、まるで別人のように感じる──そんな時間的な断絶と、どう向き合えばいいのかを整理してみましょう。