「好きなもの」がわからなくなったとき、手がかりを静かに探す方法

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好きなことを聞かれると困る。趣味がわからない。そんな悩みの裏にある構造と、小さな手がかりの見つけ方を考える第2回。

好きなものがわからないのは、感性が鈍いからではありません。「好き」のハードルが上がりすぎているだけかもしれない。

「趣味は何ですか?」──困る質問

初対面の場、プロフィール欄、合コン、面接。「趣味は何ですか?」という質問は、あらゆる場面で飛んできます。多くの人が何の苦もなく答えているように見えるこの質問が、実はとても答えにくいと感じる人がいます。

読書と言えるほどたくさん読んでいるわけではない。映画は見るけど、「映画好きです」と言えるほど詳しくない。散歩は好きだけど、趣味と呼べるのだろうか。何かを挙げようとするたびに、「それは本当に趣味と言えるのか?」という検閲が自分の中で走る。

結局、「特にないんですよね」と苦笑いで返す。あるいは、当たり障りのないものを一つ挙げてやり過ごす。でも心の中には、小さな引っかかりが残ります。「自分には好きなものがないのかもしれない」という不安。

前回、自分がわからなくなった経緯として「合わせすぎた結果」について触れました。好きなものがわからないという問題も、その延長線上にあります。ずっと相手に合わせてきた人は、「自分は何が好きか」ではなく「相手が何を好むか」にアンテナを向けてきた。自分の好みに向けるべき注意が、他者への配慮に使い切られてきたのです。

「好き」のハードルが上がっている

好きなものがわからない人の多くに共通するのが、「好き」という言葉のハードルが異常に高くなっているという問題です。

「好き」と言うからには、本当に心から好きでなければいけない。詳しくなければいけない。長く続けていなければいけない。人に説明できるくらいの理由がなければいけない。──こうした暗黙のハードルが、自分の中に設定されてしまっている。

SNSの影響も大きいでしょう。インターネットには「好きなことを極めている人」の姿が溢れています。料理が趣味の人は見事な料理写真を投稿している。読書好きの人は月に何十冊も読んでいる。こうしたハイライトを見続けていると、自分の「なんとなく好き」が取るに足らないものに感じられます。

でも、多くの人の「好き」は本来、もっと曖昧で静かなものです。「なんとなく落ち着く」「理由はないけど惹かれる」「やっていると時間が早く過ぎる」。こうした微かな感覚を、「好き」と呼んでいいのです。壮大な情熱や深い知識がなくても、「ちょっと気持ちいい」で十分に好き。まずはそのハードルを下げることが、好きを取り戻す最初のステップです。

「嫌ではなかったこと」から逆算する

好きなものを正面から探すのが難しいとき、裏口からアプローチする方法があります。それが「嫌ではなかったこと」に注目するやり方です。

好きかどうかはわからなくても、「嫌ではなかった」なら判断しやすい人は多い。先週の休日にやったことの中で、嫌ではなかったものは何だったか。仕事のタスクの中で、やらされ感が比較的薄かったものは何か。「嫌ではない」は「好き」の隣にいます。

「時間を忘れていたこと」も有力な手がかりです。気がついたら一時間経っていた。何かに集中していて、食事の時間を過ぎていた。没頭できること自体が好きのサインです。それが読書であれゲームであれ掃除であれ、没頭の対象は何でもいい。

子どもの頃に好きだったことを振り返るのも一つの方法です。大人になると「合わせる自分」が強くなりますが、子どもの頃は比較的素直に反応していたはずです。絵を描くのが好きだった。虫を捕まえるのが好きだった。図書室にこもるのが好きだった。そのまま今の趣味にはならなくても、「自分がどういう体験を心地よいと感じるタイプか」を知る手がかりにはなります。

他人の「好き」を借りてみるのも方法です。友人が勧めてくれた本を一冊読む。同僚が良いと言っていた音楽を聴いてみる。合わなかったら、それはそれでいい。「これは自分のタイプじゃないな」とわかること自体が、自分を知る手がかりです。

体の反応に耳を傾ける

「好き」を頭で考えて判定しようとすると、うまくいかないことがあります。そんなときは、体の反応に注目してみてください。

美術館である作品の前で足が止まった。あるカフェに入ったとき、肩の力が抜けた。あるメロディを聴いたとき、胸のあたりが柔らかくなった。こうした体の反応は、頭よりも正直です。

反応は小さくていい。「ちょっと気になった」「なんとなく目が止まった」「理由はないけど手に取った」。この微かな引っかかりが、好きの種です。頭で「これは趣味と呼べるだろうか」と検閲を入れる前に、まず体の反応をそのまま受け取ること。

体の反応を拾い上げるためには、少しだけ余白が必要です。予定で埋まった一日の中では、自分の反応に気づく余裕がない。通勤中にスマートフォンを見る代わりに、窓の外を眺めてみる。散歩中にイヤホンを外して、周囲の音を聞いてみる。そうした小さな余白の中で、ふと「あ、これいいな」と感じる瞬間が訪れることがあります。

「好き」を宣言しなくてもいい

手がかりが少し見えてきたとしても、それをすぐに「自分の好きなもの」として宣言する必要はありません。

「好きです」と公言することにはプレッシャーが伴います。好きと言った以上、詳しくなければいけないのではないか。ずっと続けなければいけないのではないか。そうした義務感が、せっかくの「ちょっと気になる」を潰してしまうことがあります。

だから、「気になる」くらいの温度で持っておけばいい。「最近ちょっとコーヒーが気になっている」「手芸の動画を見るのがなんか落ち着く」「散歩中に花を見るのが悪くない」。この「なんとなく」の段階を、大事にしてほしいのです。

「好き」は育つものです。最初から「大好き」としてやってくるものではなく、「なんとなく気になる」から始まって、触れているうちに少しずつ温度が上がっていく。その最初の芽を、「好きと言えるほどじゃないから」と摘んでしまわないようにする。それだけで、生活の中に少しずつ色が戻ってきます。

好きがわからなくても、生活はできる

ここまで読んで、「やっぱり好きなものが見つからない」と思った人もいるかもしれません。それでも、焦る必要はありません。

好きなものがなくても、日々の生活は成り立ちます。ご飯を食べて、仕事をして、夜寝る。その中で、ふとした瞬間に「今、悪くないな」と感じる時間がある。それだけで十分です。「好きなものがある毎日」がすべての人に必要なわけではないし、「好きなものがない日常」が虚しいわけでもない。

大切なのは、「好きなものがない自分はダメだ」と思わないことです。好きなものの有無は、人間の価値を測る基準ではありません。わからないままやり過ごす日があっても、それはそれでいい。そうしているうちに、ふと「あ、これ好きかも」と思える瞬間が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでも、あなたの日常は続いていきます。

「好き」と「得意」は違う

好きなものを探しているとき、間違えやすい感覚があります。「好き」と「得意」の混同です。得意だからといって好きとは限らない。仕事で評価されることが、必ずしも心から楽しいこととは限りません。

逆に、下手だけどなんとなくやってしまうことが「好き」の手がかりであることもあります。絵が上手くなくても落書きをする。料理が得意じゃなくても、休日に何か作ってみたくなる。周囲から評価されなくてもやめないこと。それが、外からの承認ではなく内側からの動機──つまり「好き」に近い何かです。

「好き」と「慣れ」も区別しにくい。長年やっているから続けているだけで、本当に好きかどうかわからない。惰性で続けていることを「好き」と呼んでいないか、たまに立ち止まって確認してみるのは意味があります。褒められなくても、一人で黙々とやりたくなること──それが「好き」の手がかりとしては最も信頼できるサインです。

さらに言えば、「好き」と「周りの評価」の混同もあります。「それいいね」と褒められたことを好きだと思い込んでいることがある。他者からの承認が嬉しいのは自然なことですが、それは「褒められることが好き」であって、その活動自体が好きかどうかは別の話です。誰にも報告しないのにやりたいこと。それが、自分の内側から来ている好きのサインです。

好きだったものが好きでなくなる現象

以前は確かに好きだったものに、いつの間にか興味を失っていることがあります。学生時代に夢中だった音楽。若い頃にハマっていたゲーム。ある時期に集中的に読んでいた作家。

「好きなものがわからなくなった」と感じる人の中には、こうした「かつての好き」が色あせてしまった経験を持つ人がいます。好きなものがなくなったのではなく、「好きだったもの」との関係が変わったのです。

これは自然なことです。人は変わります。20歳の好みと35歳の好みが違って当然。問題なのは、「あのとき好きだったものを失ってしまった」という喪失感が、次の「好き」を見つけにくくしてしまうこと。「あのときみたいな情熱がもう二度と湧かないんじゃないか」という不安。

でも、次の「好き」は、前の「好き」と同じ形である必要はありません。情熱的なものではなく、静かでじんわりしたものかもしれない。それでも、立派に「好き」です。形が変わっただけで、好きになる力が消えたわけではないのです。

もうひとつ大切な視点があります。好きだったものが色あせたとき、「あのときの自分は嘘だったのか」と思うことがある。でも、嘘ではありません。あのときの自分は本当に好きだった。今の自分はもう違う。両方とも本当です。好きは「永遠に変わらないもの」ではなく、「その時期の自分を映す鏡」です。鏡に映る像が変わるのは、鏡が壊れたからではなく、映す側が成長したからです。

「気になる」を拾った一日

好きなものを探す練習として、「気になる」を一日だけ意識的に拾ってみた場面を想像してみてください。

朝、通勤中に目に入った花屋の店先。「きれいだな」と思った。いつもは素通りするのに、今日は一瞬立ち止まった。昼、コンビニでいつもと違うパンを手に取った。「なんとなく、今日はこれがいい気がした」。夕方、書店で平積みの本の表紙が目に入った。買うほどではないけど、何かが引っかかってスマホでメモした。

帰宅して、その日の「気になった」を振り返ってみると三つ。花、見慣れないパン、本の表紙。それぞれに大した理由はない。でも、「自分はこういうものに反応するんだな」という小さな発見がある。この発見の蓄積が、「自分の好き」の輪郭を少しずつ描いていきます。大事なのは「好きを見つける」ことではなく、「反応を拾う」感覚を持つことです。

逆に、一日を過ごして「何にも気にならなかった」としても、それは失敗ではありません。気にならない日は、心が何かを処理している最中かもしれない。あるいは、疲れていて感度が下がっているだけかもしれない。そういう日は「今日は休みの日だった」と済ませればいい。反応が起きやすい日と起きにくい日があるのは自然なことで、毎日拾えなくても練習は続いています。

「好きリスト」ではなく「気になったリスト」を作る

好きなものを見つけようとして「好きリスト」を作ろうとすると、一つも書けないまま終わることがあります。ハードルが高すぎるのです。

代わりに、「気になったリスト」を作ってみてください。スマホのメモに、その日に「ちょっと気になった」ものを何でも書いていく。お店の看板。電車の中で見かけた本の広告。スーパーで目に止まった食材。通りすがりに聞こえた音楽。

一週間ほど続けて見返すと、無意識のうちにどんなものに反応しているかのパターンが見えてきます。色なのか、食べ物なのか、場所なのか、活動なのか。これは「好きなものリスト」よりもずっと正直な自分の傾向マップです。

好きが見つからない日を過ごすあなたへ

好きなものがわからない日が続くと、「自分は感受性が鈍いのではないか」と不安になることがあります。でも、この記事をここまで読んでいること自体が、何かに反応している証拠です。

好きなものは、必ずしも劇的な出会いとしてやってくるわけではありません。ある日ふと「最近、あの味が食べたいな」と思う。何度目かに通った道で、いつもの花が咲いているのに気づく。そういう静かな瞬間が、好きの芽であることがある。

探すのをやめたときに見つかる、という矛盾した話は、好きなものについても当てはまります。肩の力を抜いて、日常を過ごしてみてください。反応は、リラックスしているときのほうが起きやすいものです。

もうひとつ、覚えておいてほしいことがあります。好きなものが見つからない時期は、自分の感覚が「リセット中」なのかもしれません。古い好みが手放され、新しい好みがまだ定まっていない──その間の空白。空白は何もない時間ではなく、次に何を受け入れるかを身体が準備している時間です。焦って埋めようとせず、空白のまま過ごすことが、新しい好きとの出会いをむしろ近づけてくれることがあります。

好きを「編集」する力

好きなものを見つけることと、好きなものを「編集」することは少し違います。見つけるのは発見の作業。編集するのは、見つけたものの中から「これは今の自分に合う」「これはもう卒業かも」と選り分ける作業です。

人生が進むにつれて、好きなものは増えたり減ったり変質したりします。10年前に好きだったものが今も好きとは限らないし、今年新しく好きになったものが10年後も好きとは限らない。好きは固定ではなく、常に編集中のリストなのです。

「好きなものがわからない」という人は、この編集作業を始めていないか、白紙に近い状態かもしれません。でもそれは、これから編集を始められるということでもある。「気になったリスト」は編集のための素材集めです。素材が集まったら、少しずつ編集を楽しんでいけばいいのです。

編集には「正解」がありません。好きなもののリストは自分だけのもので、他人と比べる必要はありません。「こんなものが好きなのはおかしい」という判断も不要。自分の反応を正直に集めて、そこから自分らしいパターンを見つけていく。それが、好きの編集の醒醐味です。

「好きなもの」がわからなくなったとき、手がかりを静かに探す方法

今回のまとめ

  • 好きなものがわからないのは、「好き」のハードルが上がりすぎていることが多い。
  • 「嫌ではなかったこと」「時間を忘れたこと」「子どもの頃の好き」が手がかりになる。
  • 頭で判定するより、体の反応に耳を傾けたほうが「好き」に気づきやすい。
  • 「好きです」と宣言しなくてもいい。「気になる」くらいの温度で十分。
  • 好きなものがなくても生活は成り立つ。焦らず、日常を過ごしていい。

次回は、「自分の気持ちにうまく名前がつけられない」という問題を取り上げます。感情はあるはずなのに、言葉にできない。そんな経験について考えてみましょう。

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