「将来の夢は?」が怖くなった日
子どもの頃、「将来の夢は?」と聞かれるのが嫌ではなかった人も多いでしょう。サッカー選手、パティシエ、宇宙飛行士。深く考えなくても、何かしら答えられた。それが「夢」である必要すらなかった。
でも、大人になるとこの質問の重みが変わります。就活の面接で「あなたは何がしたいですか」と聞かれる。転職を考えたとき「本当にやりたいことは何だろう」と自問する。キャリアの節目ごとに、「やりたいこと」を求められる。
やりたいことがある人は迷わず進んでいるように見える。SNSには「好きなことを仕事にした人」「やりたいことに従って生きている人」の物語が溢れている。それを見るたびに、「自分にはそれがない」という焦りが膨らんでいく。
前回までで、好きなもの、気持ち、感情の言語化について考えてきました。今回はその延長線上にある、「やりたいことがない」という不安を正面から見つめます。
「やりたいこと」のハードルが上がりすぎている
第2回で「好き」のハードルが上がりすぎている話をしました。「やりたいこと」にも同じ構造があります。
「やりたいこと」と聞くと、多くの人は「人生を懸けるような情熱」「天職」「使命」といった、非常に大きなものを想像します。やりたいことがある人はキラキラしていて、迷いがなくて、人生に一本の軸が通っている。そんなイメージ。
でも実際には、やりたいことがある人だって迷います。今日やりたいことと来年やりたいことは違うし、仕事でやりたいことと休日にやりたいことも違う。やりたいことは一つの確固たるものではなく、状況や時期によって変わる、流動的なものです。
「やりたいことがない」と感じている人の多くは、やりたいことが本当にゼロなのではなく、「やりたいことと呼べるほどの確信がない」状態にいます。なんとなく気になることはある。でも、それを「やりたいこと」として人に言うほどの自信がない。ハードルが高すぎて、自分の中にある小さな種を「やりたいこと」と認められないのです。
「やらなきゃ」と「やりたい」の混同
やりたいことを探そうとしたとき、もう一つ混同しやすいものがあります。「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」です。
キャリアアップしなきゃ。資格を取らなきゃ。自分を成長させなきゃ。こうした「べき」が、「やりたいこと」のふりをしていることがあります。世の中が求めていること、親が期待していること、社会的に価値があるとされていること。それを「やりたいこと」として自分に言い聞かせている。
本当にやりたいのか、やらなければならないと思っているのか。この区別は意外と難しい。見分ける手がかりの一つは、「それをやっている自分」を想像したときの体の反応です。ワクワクするか、それとも重く感じるか。義務感から解放されたとしても、それをやりたいと思うかどうか。
もし「やらなきゃ」を全部取り除いたら何が残るか。その問いに対して「何も残らない」と感じたとしても、それは貧しいのではなく、今まで「べき」で埋め尽くされていて「したい」が塞がれていただけかもしれない。「べき」を減らすことで、初めて「したい」が顔を出す余地ができるのです。
「やりたいこと」がなくても日々は進む
ここで一つ、根本的な問いに向き合ってみましょう。そもそも、やりたいことがないと本当に困るのでしょうか。
やりたいことがある人は幸せで、ない人は不幸──そういう価値観が社会にあります。でも、実際にはやりたいことがなくても穏やかに暮らしている人はたくさんいます。毎日の仕事をこなし、ご飯を食べ、たまに友人と会い、季節の変化を感じる。その中で、大きな「やりたいこと」がなくても、日々は成立している。
問題が生まれるのは、「やりたいことがない自分はダメだ」と自分を責め始めたときです。やりたいことがないこと自体ではなく、やりたいことがないことへの焦りが、苦しさの正体であることが多い。焦りの源は、「やりたいことがあるべきだ」という社会のメッセージです。
その焦りを手放すためには、「やりたいことがなくても、今の日常は十分に成り立っている」という事実を認める必要があります。何か壮大な目標がなければ生きてはいけないわけではない。目の前の一日を、そこそこ機嫌よく過ごすこと。それが案外、人生の大部分を占めているのです。
「やりたくないこと」から輪郭を描く
第2回で「嫌ではなかったこと」から好きの手がかりを探す方法を紹介しました。やりたいことについても、同じ逆算アプローチが使えます。
やりたいことがわからなくても、「やりたくないこと」ならわかる人は多い。満員電車での通勤は嫌だ。人前でプレゼンするのは苦手だ。単調な作業は退屈。逆に、一人で黙々と作業するのは嫌ではない。文章を書くのは苦にならない。人と話すのは疲れるけど、一対一なら平気。
こうした「嫌なこと」と「嫌ではないこと」を並べていくと、自分の傾向が見えてきます。やりたいことの正体が一気に見えるわけではありませんが、「少なくとも、こっち側にいたい」という方角が見える。方角がわかれば、その方向にある選択肢を少しずつ試していけばいい。
「消去法は後ろ向きだ」と感じるかもしれません。でも、消去法で残ったものは案外信頼できます。なぜなら、理想や見栄に歪められにくいから。「これがやりたい!」という宣言は、周囲の期待やSNSの影響を受けやすい。でも、「これは嫌だ」という感覚は、自分の体が正直に出しているサインです。
小さな「やってみたい」を拾う
やりたいことは、突然ドラマチックに降ってくるものだと思われがちです。「これだ!」と天啓のように現れる瞬間。でも実際には、多くの人の「やりたいこと」は、もっと地味に始まります。
「このカフェ、ちょっと行ってみたいな」。「あの本、読んでみようかな」。「料理教室の体験、面白そうだな」。こうした小さな「やってみたい」は日常の中にたくさん転がっています。問題は、多くの人がそれを「やりたいこと」としてカウントしていないこと。
「やりたいこと」を大きなもの──人生の方向を決めるような決断──としてだけ捉えていると、日常の小さな「やってみたい」を見逃してしまいます。でも、この小さな「やってみたい」を一つずつ拾い上げて実行してみること。それが、やりたいことを見つけるための最もリアルな方法です。
やってみて、面白ければ続ける。つまらなければやめる。その繰り返しの中で、少しずつ「こういうことが自分は好きらしい」という傾向が浮かんでくる。人生を懸けるようなやりたいことは、こうした小さな実験の積み重ねから、気づいたら輪郭を持ち始めるものです。一つの体験で見つかることはまれで、何十回もの「ちょっとやってみた」の先に、ようやく見えてくる。
「やりたいこと探し」自体が目的化する罠
第1回で「自分を知ること」が目的化する罠について触れました。やりたいことについても同じことが起こり得ます。
「やりたいことを見つけなければ」と思いすぎると、見つけること自体が目的になり、見つからないことがストレスになる。自己分析の本を何冊も読み、ワークショップに参加し、性格診断を次々と試す。でも、「これだ」と思えるものは見つからない。探しているのに見つからない焦り。探し方が悪いのだろうかという自責。
こうした「やりたいこと探し疲れ」に陥っているなら、一度探すのをやめてみることも選択肢です。探すのをやめた瞬間にふと見つかる、ということが実は少なくない。なぜなら、探しているときは「見つけなければ」という緊張があり、その緊張が感度を下げてしまうから。リラックスしているときのほうが、自分の内側の反応に気づきやすいのです。
第9回で「自分探し疲れ」について改めて取り上げますが、今の時点では「探すのを休んでもいい」ということだけ覚えておいてください。
やりたいことは「見つける」ものではなく「育つ」もの
やりたいことがない人に一つだけ伝えたいとしたら、これです。やりたいことは「発見する」ものではなく、「育つ」ものだということ。
多くの人は、やりたいことがどこかに存在していて、それを見つけるのが人生の課題だと考えています。宝探しのように。でも、やりたいことは宝箱の中に最初から入っているものではなく、日々の体験の中で少しずつ芽を出し、水をやるうちに育っていくものです。
水やりに必要なのは、大きな決断ではなく、小さな体験の積み重ねです。気になったことをやってみる。面白かったら、もう少し深く触れてみる。誰かの話を聞いていて「それ、ちょっと興味あるな」と思ったら、メモしておく。この程度のことで十分です。
今はまだ何も芽が出ていなくても、土の中では何かが動いているかもしれない。それは、この記事を読んでいること自体が証明しています。何も動いていない人は、「やりたいことがない」ことに悩みすらしないからです。悩んでいるということは、動き始めているということです。
「やりたいこと」は変わり続けるもの
やりたいことを一度見つけたら、それがずっと続くはず──そう思っている人は多い。でも、やりたいことは時間とともに変わります。20代で夢中だったことが30代では色あせることがある。逆に、40代になって初めて「これが面白い」と気づくこともある。
やりたいことが変わること自体は、成長の証です。自分が変われば、やりたいことも変わる。それを「ブレている」と責める必要はありません。むしろ、変わり続けること自体が自然であり、健全です。
「やりたいことがない」と感じている今の状態も、もしかしたら「前のやりたいこと」が手放されて、「次のやりたいこと」がまだ来ていない移行期かもしれない。お腹が空いているのにメニューが決まらない状態。欲求はあるのに、対象がまだ見つかっていない。そういう時期だと思えば、少し気が楽になりませんか。
「何もしない休日」が教えてくれること
やりたいことがない人にとって、休日は意外とプレッシャーのある時間です。「せっかくの休みなのに何もしなかった」という罪悪感。SNSには充実した週末を過ごす人々の投稿が流れてくる。自分はソファで一日を終えた。
でも、「何もしなかった」は本当に「何もしなかった」のでしょうか。ソファでぼんやりしながら、何かを考えていたかもしれない。窓の外をなんとなく眺めていたかもしれない。その時間に、心が何かを処理していたかもしれない。
「何もしない」時間は、次に動くためのエネルギーを蓄えている時間でもあります。常に何かをしていなければという圧力から距離を取ること自体が、自分を知る手がかりになる。何もしなくて良かった、と思える日があってもいいのです。
「何がしたい?」に答えられなかった面接の日
転職活動をしていたとき、面接官に「五年後、どうなっていたいですか?」と聞かれた場面を想像してみてください。頭が真っ白になる。「正直、わからない」が本音なのに、何か立派なことを言わなければいけない空気。
結局、ネットで見つけた模範解答をアレンジして答えた。面接官はうなずいていたけれど、自分の中には虚しさが残る。「今の答え、本当の自分の考えじゃなかったな」。この虚しさは、やりたいことがないこと自体よりも、やりたいことがあるふりをしなければならない場面の苦しさです。
でも、面接で正直に「まだ模索中です」と答える選択肢だってある。それは弱さではなく、誠実さです。むしろ「模索中だからこそ、御社でさまざまな経験を積みたい」と繋げれば、正直さが前向きな印象になることもある。やりたいことがないことを隠す労力より、ないことを認めた上で前を向く労力のほうが、ずっと軽い。
「やらない実験」をしてみる
やりたいことを探す方法として、逆に「やらない実験」があります。いつもやっている習慣を一つだけ止めてみる。惰性で見ているSNSを一日やめてみる。毎晩見ている動画を一晩だけ見ない。
やめてみたときに何が起きるかを観察する。物足りなさを感じたら、それは「実はやりたかった」のサイン。何も感じなかったら、惰性だった可能性が高い。空いた時間に何をしたくなるかに注目してみてください。その「何をしたくなるか」の中に、やりたいことの種が隠れていることがあります。
この実験のいいところは、失敗がないことです。何も見つからなくても、一日の習慣を見直しただけ。見つかったらラッキー。気楽にやれるのが、この実験の強みです。
焦らなくても、あなたの時間は流れている
やりたいことがない焦りの裏には、「時間が無駄になっている」という恐怖があることが多い。みんなは目標に向かって進んでいるのに、自分だけが止まっている。時間だけが過ぎていく。
でも、止まっているように見えても、あなたの中では何かが動いています。迷っている時間は、選択肢を吟味している時間です。何もしていないように見える日々の中で、経験は少しずつ蓄積されている。その蓄積が、ある日ふと「あ、これがやりたいかも」という感覚につながることがあります。
焦りを感じたときは、「今は準備期間だ」と思えるかどうか。準備期間には目に見える成果がないから不安になる。でも、根っこは土の中で伸びている。花が咲くタイミングは、外からは見えないのです。
「目標ベースの生き方」だけが正解ではない
自己啓発の世界では、「目標を設定し、そこに向けて行動する」ことが正しい生き方とされています。でも、すべての人がこのスタイルに合うわけではありません。目標型ではなく「漂流型」の生き方もある。
漂流型は、明確なゴールを決めず、その時々で気になることをやってみて、流れに乗りながら進んでいくスタイルです。キャリアの寄り道が、思わぬスキルの組み合わせを生むことがある。趣味の浮気が、意外な人脈を連れてくることがある。
やりたいことがないと感じている人は、もしかしたら目標型の生き方を前提にしているから苦しいのかもしれません。もし漂流型を許容できたら、「やりたいことがない」は問題ではなく、「今はまだ流れの途中にいる」という状態の描写に変わります。目標がなくても、流れていれば景色は変わっていく。その景色の中で心が反応するものに出会えたら、そこから何かが始まるかもしれないのです。
今回のまとめ
- 「やりたいこと」のハードルが上がりすぎて、小さな種を見逃している可能性がある。
- 「やらなきゃ」と「やりたい」を混同しやすい。「べき」を減らすと「したい」が見えてくる。
- やりたいことがなくても日々は成り立つ。焦り自体が苦しさの原因であることが多い。
- 「やりたくないこと」から自分の方角を知る消去法は、案外信頼できる。
- やりたいことは「見つける」ものではなく、小さな体験の中で「育つ」もの。
次回の第5回では、「人の意見に流されやすい自分」について考えます。自分の意見がないように感じるのはなぜなのか。流されることの見方を少し変えてみましょう。