枕元の本が、開かれないまま積まれていく
本が読めない、長い文章が追えない。そういう自覚を持つようになったのは、いつ頃からでしょうか。多くの人は、はっきりした境目を覚えていません。ある時期から枕元の本が開かれないまま積まれ始め、図書館で借りた本が読まずに返却日を迎え、Kindleの新刊が二十冊以上、未読のまま並ぶようになっていた。気づいたときには、もう数年、まともに一冊を読み切っていない。そういう感覚を抱える人が、いま増えています。
本シリーズは、その「読めない」感覚を扱います。読めない感覚を、能力の低下や、集中力の衰え、年齢のせいといった、本人を責める方向の物語で解釈しないこと。それが本シリーズの出発点です。読めない時期は、本人の中の何かが壊れた状態ではなく、生活の構造、情報摂取の習慣、心の余白の量が、いったん別のバランスに移っている回復段階だと考えます。回復段階という言葉を使うのは、いずれ読める時期が戻ってくる、という前提に立っているからです。
読めない時期が長く続き、生活に支障があるレベルになっている場合は、うつや、ADHDなどの注意特性が背景にある可能性もあります。これは医療の領域なので、本シリーズの実践だけで自己解決しようとせず、心療内科や精神科に相談してください。本シリーズが扱うのは、その手前の、生活のなかにふつうに混ざってくる読めなさです。
このシリーズで扱うこと
第1話から第3話までは無料で公開しています。第4話以降は、会員限定の長尺記事になります。読み終えてもらうのに、半年から一年くらいの間隔で何度か戻ってきてもらえる、そういう距離感の本として、本シリーズが機能してくれることを目指しています。
「読めない」を能力の問題と捉える誤り
読めない自分を責めるとき、私たちはたいてい、読書を一種の能力として扱っています。集中力、読解力、語彙力、教養といった、訓練すれば伸び、放置すれば衰える能力の集合体として、読書を位置づけている。だから、読めなくなったときには、その能力が落ちた、と解釈してしまいます。これは、半分は当たっていますが、半分は外れています。
読書を能力としてだけ捉える発想は、現代的な物の見方の一つで、それ自体が比較的新しいものです。江戸時代の素読、明治の翻訳ブーム、戦後の教養主義、と並べてみると、読書は時代ごとに違う社会的役割を担ってきました。「能力としての読書」を強く打ち出すようになったのは、戦後の教育の中で、特に高度経済成長期以降のことです。それより前の時代の人々が、いまの私たちより本を読めなかったとは限りません。役割が違っていただけです。
本シリーズの立場では、読書を能力ではなく、生活の一つの様態として扱います。様態というのは、その人が読書とどんな関係を結んでいるか、という関係の形のことです。多く読む時期もあれば、少ししか読まない時期もあり、まったく読まない時期もあります。これらは、能力の高低ではなく、その時期の生活と読書の関係の形が違うだけです。
スマホ時代の前と後
もう一つ、現在の「読めなさ」を考えるうえで欠かせない視点があります。スマートフォンが日常に入ってきた時期と、自分の読書量が減った時期が、ほぼ重なっていないか、という観察です。多くの人にとって、これは重なっています。2010年代の前半に、スマートフォンが生活の中心に入ってきた時期と、「本を読まなくなった」「集中が続かなくなった」と感じ始めた時期が、ほぼ同じです。
これは因果関係を断定する話ではありません。スマートフォンが集中力を破壊した、と単純化して言うのも、本シリーズの立場ではありません。スマートフォンを使いながらも、たくさんの本を読んでいる人はいますし、スマートフォン以前から読書習慣がなかった人もいます。ただ、スマートフォンが普及した時期に、多くの人の情報摂取のパターンが変わり、その結果として読書との距離が変わった、という大きな流れは、否定しにくいです。
スマートフォン以前の生活では、電車の中、待ち時間、寝る前の数分、といった、いまスマートフォンが埋めている細切れの時間が、空白として存在していました。空白の時間は、本人にとっては退屈かもしれませんが、本のページを開く余白でもありました。空白が消えると、本のページを開く余白も消えます。これは本人の意志の問題というより、生活の構造の変化の問題です。
「読めない」と「読みたくない」を分ける
読めなさを扱ううえで、最初に分けておきたいのが、「読めない」と「読みたくない」の違いです。読めないのは、読みたいのに、ページが進まない、内容が頭に入らない、最後まで行けない、という現象。読みたくないのは、そもそも読書に対する欲求が立ち上がってこない状態です。この二つは、外から見ると同じに見えますが、本人の内側ではかなり違います。
読めない、という状態は、本人の中にまだ「読みたい」という欲求が残っている状態です。読みたいけれども、何らかの理由で読み進められない。この状態には、本シリーズの実践が比較的よく効きます。読みたくない、という状態は、欲求そのものが沈んでいる状態です。この場合は、無理に読書を取り戻そうとせず、欲求が戻ってくるのを待つほうがいい場合があります。
本シリーズの大部分は、「読めない」のほうを扱います。「読みたくない」については、第9話の「感想を持たない自由」のところで、別の角度から触れます。いま、自分がどちらの状態にあるのかを、一度内側で確認してみてください。両方の混合である人も多いです。混合の場合は、どちらの比率が大きいかを、ざっくりでいいので感じ取っておくと、本シリーズの読み方が少し変わってきます。
「積まれた本」を罪悪感の源にしない
枕元やリビングや本棚に積まれた未読本は、多くの人にとって、罪悪感の源になっています。買ったのに読んでいない、借りたのに返してしまった、図書館の予約が回ってきたのに開けなかった。これらの未読本を見るたびに、自分の怠惰さ、計画性のなさ、知的好奇心の衰えを思い出させられる、という感覚です。これは、読書に対する評価軸が「読み終えること」に偏っているから生まれる感覚です。
読書に対する評価軸を、「読み終えること」から、「本と暮らすこと」に少し広げると、未読本の意味が変わります。未読本は、いま読んでいない本ではなく、いつでも読める状態で隣にいる本です。本を所有するということは、その本を読み終えることを約束する契約ではなく、その本に手が届く場所に置いておく、という関係の選択です。読み終えるかどうかは、その関係の中で決まる結果であって、最初に約束されたゴールではありません。
もちろん、ある程度の量を超えると、未読本そのものが圧として降ってきます。物理的なスペースを圧迫し、視界の中に常にあり、引っ越しのときに重い。だから、ある周期で未読本を整理することは、自分の中の圧を下げるために有用です。整理するときに、罪悪感ベースで処理するのではなく、いまの自分の関心と関係の薄い本を、別の人の手に渡す、というベースで処理するほうが、後味がよくなります。
「読書の再起動」を急がない
読めない時期の人がよくやってしまうのが、「読書を再起動するために、有名な名作から読もう」という再起動の試みです。話題の新刊、古典の名著、自己啓発のベストセラー。意気込んで買って、最初の二十ページで挫折し、本棚に並べた本に対する敗北感が積み増される、というパターン。この再起動の方法は、たいてい失敗します。理由は、長く読書から離れていた人にとって、これらの本は重すぎるからです。
読書の再起動は、もっと小さく始めるほうが成功率が高いです。第4話で詳しく扱いますが、絵本、詩集、写真集、短編集、エッセイの薄い本、というような、五分から十分で読み終えられる小さな本から始めるのが現実的です。読み終えた本が一冊できると、本人の中で「自分は本を読み終えられる」という感覚が回復します。この感覚の回復が、次の本に手を伸ばすための燃料になります。
本シリーズの立場では、読書の再起動を、人生のプロジェクトとして大きく構えないことを勧めます。「今年は本を百冊読む」「今月から毎日三十分読む」というような目標を立てると、目標未達のたびに自己嫌悪が積まれ、結果として本から遠ざかります。目標は立てず、ただ短い本を一冊、机の上に置いておく。それくらいの軽さから始めて、徐々に体力を戻していく。これが、急がない再起動の基本姿勢です。
もう一つ、第1話で触れておきたい視点があります。読書を再起動しようとする人ほど、本以外のメディアからの離脱を同時に試みがちです。SNSアプリを消す、動画配信サービスを解約する、ニュースアプリの通知を切る、というように、本以外を一気に断つ。これは効きそうに見えますが、たいていうまくいきません。離脱と再起動を同時にやると、本人の中で耐える項目が増えすぎて、本の前に座ること自体が苦痛になります。離脱と再起動は別のプロジェクトとして、半年くらいずらしてゆっくり進めるのが現実的です。本シリーズの中盤では、本以外のメディアとの関係調整についても断片的に触れますが、それは本を読むための前提整備という位置づけです。前提整備が完成してから読書を始めるのではなく、整備しながら、できる範囲で短い読書を並行させる、という時間設計のほうが、本人の生活には負担が少なく、長続きします。
同じく回復段階を扱うシリーズへのリンク
本シリーズと並行して、参考になる関連シリーズをいくつか紹介します。何かを「楽しめない」「やる気が出ない」感覚を扱う 趣味アンヘドニアシリーズ は、読書を含めた広い意味での無快楽症の扱いを補ってくれます。情報過多による疲労を扱う 日常ストレスシリーズの第4話 は、スマートフォン由来の注意の分散を、別の角度から扱っています。
明るくいなければならない圧と、読書ができないこととは、別のテーマに見えますが、実は重なる部分があります。読めない時期の自分を恥じない、という姿勢は、暗い時期の自分を恥じない、という姿勢と地続きです。暗い時間を生きる権利 も、本シリーズの読者にとって、何かの助けになるかもしれません。
本シリーズは、これらの関連シリーズと違って、読書という具体的な活動に焦点を絞っているので、読書から離れている人だけが対象です。読書をすでに楽しんでいる人にとっては、第3話以降の話の必要性が薄いかもしれません。ただ、第1話と第2話の枠組みは、読書以外の「能力として捉えがちな日常の活動」全般にも応用できる視点なので、興味があれば最後まで読んでみてください。
第1話の問い
第1話で持ち帰ってほしい問いは三つ。一つ目、あなたが最後に「読み終えた」と感じた本は、何ですか。タイトルを思い出せなくても、ジャンルや雰囲気だけでも構いません。読み終えた感覚を、最後に持ったのがいつだったかを、自分の中で確認してみてください。二つ目、いま積まれている未読本のうち、もう読まないだろうな、と心の中ですでに諦めているものは、何冊くらいありますか。三つ目、いま読書から離れていることに、あなたはどれくらい罪悪感を持っていますか。罪悪感の正体を、本シリーズの読み進めとともに、少しずつ言語化していきましょう。
今回のまとめ
- 読めない感覚を、能力低下ではなく、生活と読書の関係の形が変わった「回復段階」として扱う
- 長く生活に支障があるレベルの読めなさは、うつやADHDなど医療領域。専門家への相談を
- スマホ時代以前にあった空白の時間が消えたことが、読書との距離が変わった構造的背景
- 「読めない」と「読みたくない」を分けて自覚する。本シリーズは主に「読めない」を扱う
- 未読本を罪悪感の源にせず、「本と暮らす」関係への評価軸の広げ直しを試みる
- 再起動は名作からではなく、五分で読める小さな本から。目標は立てず、軽さから始める