「愛しているはずなのに」が揺らぐ瞬間──親の暗闘を言葉にする

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子どもを愛しているはず。でもときどき、その確信が揺らぐ。苛立ち、疲弊、逃げ出したい衝動。誰にも言えないその感覚に、心理学の言葉を静かにあてがう第1回。

子どもが寝静まった夜、愛情と疲弊が同居するあの感覚。「本当に愛せているのか」という問いは、口にした瞬間に親失格の烙印を押されそうで誰にも言えない。親の暗闘を言葉にすることから始める第1回。

子どもが眠ったあと、残るもの

子どもが眠った。ようやく静かになった部屋で、今日一日を振り返る。──あるいは、振り返りたくないのに、場面が勝手によみがえる。

夕方、何度言っても靴を揃えない子どもに声を荒げた。声を荒げた自分に嫌気がさした。それでも子どもは泣きながらこちらに抱きついてきた。その小さな手のぬくもりを感じながら、申し訳なさと、正直に言えば──「もう少しだけ、ひとりにしてほしい」という気持ちが同時にあった。

子どもの寝顔を見る。穏やかな顔をしている。この子を守りたいと思う。この子のためなら何でもすると思う。しかし同時に、数時間前の自分が発した声の鋭さを思い出す。あの瞬間、自分は本当にこの子を大切に思っていたか。愛情から叱ったのか、それとも自分の苛立ちをぶつけただけだったのか。──その境目が、うまく見えない。

「愛しているはずなのに」。この「はず」がつくとき、あなたの中で何かが揺らいでいます。その揺らぎは、育児の疲れだろうか。気分の波だろうか。あるいは、もっと根本的な何か──「自分はこの子を十分に愛せていないのではないか」──だろうか。

もし、この最後の問いが頭をよぎったことがあるなら、このシリーズはあなたのために書かれています。

「最大のタブー」──誰にも言えない理由

親が子どもを愛するのは当然だ。──この前提は、社会のほぼあらゆる場所で共有されています。産院で、保育園の保護者会で、子育てのSNSコミュニティで、心理学の教科書で。親の愛は自然で、本能的で、無条件であるはずだ、と。

この前提が強力であるがゆえに、そこからはみ出す感覚は最大のタブーになります。「子どもが可愛いと思えない瞬間がある」「お世話が義務感だけになっている」「この子がいなければ、と一瞬思ってしまった」。──こうした感覚が浮かぶこと自体は、後で確認するように、実は珍しくありません。しかし、それを口にする場所はほとんどない。

なぜか。第一に、「親としての資格を剥奪される恐怖」があるからです。「子どもを愛せない」と言えば、ネグレクトや虐待を疑われるのではないか。児童相談所に通報されるのではないか。家族や友人から軽蔑されるのではないか。──こうした恐怖は、たとえ現実的でなくても、感覚としては非常にリアルです。

第二に、自分自身の中に「裁判官」がいるからです。他人に言う前に、自分が自分を裁いている。「こんなことを感じる自分は親として失格だ」「他のお母さん・お父さんはこんなこと感じない」「自分は人として何かが欠けている」。──内側の裁判は、誰かに話す前にすでに有罪判決を下している。

この「内なる裁判官」の正体は、このシリーズを通じて何度も登場する感情────です。親としての恥。「十分に愛せていない自分」を恥じている。そして、恥は「恥を感じていること自体が恥ずかしい」というメタ構造を持つため、感じていることすら認められない。言葉にするどころか、自覚することすら困難になる。

このシリーズは、その沈黙に言葉を置くことから始めます。

このシリーズでやること、やらないこと

最初に、このシリーズの輪郭を明確にしておきます。

このシリーズでやること:

  • 「子どもを十分に愛せているかわからない」という感覚の心理学的な構造を言語化する
  • 親のなかの両価性(アンビバレンス)──愛情と苛立ち、献身と逃避願望の同居──が正常な心理であることを確認する
  • 理想の親イメージと現実の自分のずれが生む苦しみ(恥)の構造を見つめる
  • 自分の親から受け継いだものが、今の自分の子育てにどう影響しているかを考える枠組みを提供する
  • 親としてのセルフ・コンパッション──自分を責めるのではなく、苦しんでいる自分に目を向ける方法を探る

このシリーズでやらないこと:

  • 「こうすればうまくいく」という子育てノウハウは提供しない。これは育児ガイドではない
  • 「あなたは悪くない」と安易に断言しない。そう言われても楽にならないことを、あなたはすでに知っているはず
  • 「子どもの気持ち」を代弁して親を裁くことはしない。ここでは親の内面に焦点を当てる
  • 虐待やネグレクトを正当化したり矮小化したりしない。子どもの安全は常に最優先
  • 精神医学的な診断や治療を代替しない。必要な場合には専門家への相談を勧める
  • 「誰が悪いか」の裁判はしない──あなたの親も、あなた自身も

つまり、このシリーズの立ち位置は、「親の内面で何が起きているのかを静かに見つめる」ことです。答えを出すのではなく、言語化する。名前のなかった苦しみに、言葉をあてがう。──それが、ここでやろうとしていることです。

「愛する」と「愛情を感じる」は同じではない

ここで、ひとつの根本的な区別をしておきます。それは、「愛する」と「愛情を感じる」は同じではないということです。

「愛する」は感情であると同時に、行為であり、選択であり、日々の営みです。子どもの体調が悪いときに夜通し看病する。自分の時間を削って送り迎えをする。疲れていても晩ごはんをつくる。嫌がられても歯磨きをさせる。──こうした日常の行為のひとつひとつは、たとえその瞬間に温かい感情が伴っていなくても、「愛する」という実践です。

一方、「愛情を感じる」は、胸の中に温かさがある状態──特定の感情的な体験──を指します。子どもの笑顔を見て胸が満たされる。抱きしめたとき安心する。この子のために頑張ろうと思える。──これは感情としての愛情です。

問題は、社会が「愛する」と「常に愛情を感じている」を同一視することです。「本当に愛しているなら、常に愛情を感じているはずだ」。この前提があるから、愛情を感じられない瞬間がある=愛していない、という短絡が起きる。

しかし、人間の感情は持続的な定常状態ではありません。疲れていれば何に対しても感情は鈍くなる。睡眠が足りなければ温かさを感じる余裕がなくなる。自分の問題に心が占領されていれば、子どもに向ける注意のリソースが減る。──それは「愛していない」のではなく、「今この瞬間、愛情を感じるための心理的リソースが枯渇している」のです。

この区別は小さなことのように見えて、実は非常に重要です。「愛することは行為でもある」と認識できると、「今日、温かい感情を感じられなかった。でも、体調が悪い子どものために薬局に走った。晩ごはんをつくった。寝かしつけをした」──その一日を、「愛せなかった日」ではなく「愛した日」として読み直す可能性が開かれます。

ただし、この区別を「だから大丈夫」という安易な安心材料にするつもりはありません。「愛情を感じられない時期が長く続いている」「子どもに対してほとんどポジティブな感情が湧かない」──こうした状態が持続しているなら、それは単なるリソース不足ではなく、より深い構造が関わっている可能性があります。その構造を、このシリーズの後半で見ていきます。

アンビバレンス──愛と苛立ちが同時にある状態

子どもへの感情を正直に観察したとき、そこには単一の感情ではなく、複数の感情が同時に存在していることに気づくのではないでしょうか。

守りたいと思う。同時に、うんざりしている。この子の成長が嬉しい。同時に、もう少し自分の時間がほしい。抱きしめたい。同時に、少し離れたい。この子のために全力を尽くしたい。同時に、自分の人生も生きたい。

心理学では、このように相反する感情が同時に存在する状態をアンビバレンス(ambivalence=両価性)と呼びます。

アンビバレンスは病理ではありません。むしろ、アンビバレンスは人間の感情の正常な状態です。私たちは仕事に対しても、友人に対しても、趣味に対しても、しばしば相反する感情を同時に抱えています。好きだけど疲れる。やりがいがあるけど嫌になる。大切だけど距離を置きたい。──こうした両価性は、あらゆる人間関係に存在します。

しかし、こと親子関係において、アンビバレンスは認められにくい。「愛しているなら、苛立つべきではない」「子どものためなら、自分の欲望は抑えるべきだ」「良い親は、子どもに対してネガティブな感情を持たない」。──こうした暗黙の前提が、親のアンビバレンスを「あってはならないもの」として抑圧しています。

英国の精神分析家ロジカ・パーカー(Rozsika Parker)は、著書『Torn in Two(引き裂かれて)』のなかで、母親のアンビバレンスを社会が正常なものとして扱うことの重要性を論じました。パーカーによれば、愛情と攻撃性(苛立ち、怒り、拒否感)が同時に存在することは、異常ではなく、むしろ子どもとの関わりのなかで避けられない自然な心の動きです。問題は、アンビバレンスそのものではなく、アンビバレンスを感じている自分を否認することにある。なぜなら、否認された感情は消えるのではなく、地下に潜り、より有害な形で表面化するからです。

パーカーはさらに、アンビバレンスには創造的な側面がある、とも述べています。愛情と苛立ちの間で揺れること──その揺れに耐えること──が、養育者を「子どもに何が必要かを考え続ける存在」に変える。完全に苛立ちだけならネグレクトに向かうだろう。完全に愛情だけなら過保護に向かうだろう。しかし、両方が存在するから、養育者は「この子のために自分は今何をすべきか」と葛藤し続ける。その葛藤こそが、子どもの必要性を感知するアンテナになっている。

つまり、あなたの中にある「愛しているのに苛立つ」は、良い親でないことの証拠ではなく、子どものことを考え続けていることの証拠かもしれない。苛立ちがゼロの親は、子どもの要求を感じ取る必要すらない穏やかな環境にいるか、あるいは、子どもの存在を心理的に遮断しているかのどちらかです。

「愛せているかわからない」と問えるのは、なぜか

ここでひとつ、逆説的だけれど重要なことを指摘しておきます。

「自分は子どもを十分に愛せているのだろうか」と問うこと自体が、子どもへの深い関心の表れです。

子どものことを本当にどうでもいいと思っている人は、そもそもこの問いを立てません。「愛せているか」を問うのは、愛したいと願っているからです。十分に愛したいのに、自信がない。ここにいるのに、十分ではない気がする。──この「十分ではない気がする」は、「十分でありたい」の裏返しです。

このシリーズを手に取ったこと自体が、あなたが子どもとの関係を真剣に考えている証拠です。それは当たり前のことではありません。多くの親は、この種の問いを持っていても、こんなに深く考える段階まで進まない。疲弊して考える余裕がないか、問いを持つこと自体を恐れて避けるか。あなたは問いを持ち、ここにいる。それだけで、「完全に愛せていない」という自己評価が少なくとも一面的であることは確かです。

ただし、「問うているからあなたは大丈夫」と言いたいわけではありません。苦しさは本物です。「問うているから大丈夫」と言われても、苦しさは減らない。このシリーズは安心材料を提供するためではなく、苦しさの構造を言語化することで、少しだけ見通しをよくするために書かれています。

ウィニコット──「ほどよい親」の提唱者

このシリーズのなかで何度も名前が出てくる人物がいます。英国の小児科医・精神分析家、ドナルド・ウィニコット(Donald Winnicott, 1896-1971)です。

ウィニコットは、1953年に「good enough mother(ほどよい母親)」という概念を提唱しました。この概念は、20世紀の子育て研究において最も影響力のあるアイデアのひとつです。

ウィニコットが言おうとしたことは、意外なほどシンプルです。子どもに必要なのは「完璧な親」ではなく、「ほどよい(good enough)親」である

「ほどよい」とは何か。ウィニコットの文脈では、それは「子どものニーズに完璧に応えること」ではなく、「子どものニーズにおおむね応えつつ、ときに失敗すること」を意味します。完璧に応え続ける親──もしそんなことが可能だとして──の下では、子どもは「自分のニーズは常に即座に満たされる」と学び、フラストレーション(欲求不満)に耐える力を発達させる機会を失う。ほどよい失敗──少し遅れる、少し間違える、少し的はずれな対応をする──が、子どもに「世界は自分の思い通りにはならないが、それでも大丈夫だ」という耐性を育てる。

つまり、ウィニコットの「ほどよい」は、妥協や手抜きの肯定ではありません。完璧を目指さないことが、子どもの発達にとってむしろ必要であるという、積極的な意味を持っている。完璧な親は、子どもの心の発達にとって、良すぎるのです。

しかし、「ほどよい親」の概念は、しばしば誤解されて伝わっています。「完璧じゃなくていいんだよ」「80点でいいんだよ」というふうに引用されることがある。善意ではあるけれど、これはウィニコットの真意からはかなり距離がある。ウィニコットは「基準を下げてもいい」とは言っていません。彼が言ったのは、失敗することが子育ての構造のなかに組み込まれているということです。失敗は避けるべきハプニングではなく、子どもの成長に必要な環境の一部である。

この「ほどよい親」の概念を、このシリーズでは何度も参照します。しかし、第2回でもう少し詳しく見ていく前に、今回おさえておいてほしいのは一点だけです。──完璧な親でなければならないという前提そのものが、親を苦しめている。ウィニコットが70年以上前に提唱したこの視点は、今も変わらず重要です。

沈黙の重さ──「言えない」ことが何を生むか

恥の心理学シリーズ(§4-47)を読まれた方は、恥が「秘密・沈黙・孤立」のなかで肥大化することをご存じでしょう。「子どもを十分に愛せているかわからない」という感覚は、まさにこの三条件を満たしています。

秘密:周囲に知られたら、親として終わりだと感じる。
沈黙:話す場所がない。話したとしても、「大丈夫だよ、愛してるよ」と返されるだけ。
孤立:こんなことを感じているのは自分だけだと思っている。

しかし、研究と臨床の知見が示しているのは、このような感覚を抱える親は決して少数派ではないという事実です。パーカーの研究をはじめ、親のアンビバレンスに関する質的研究は、子どもへの複雑な感情を報告する親が予想よりもはるかに多いことを示しています。イスラエルの社会学者オルナ・ドナート(Orna Donath)の研究「Regretting Motherhood(母であることの後悔)」は、母になったこと自体への後悔を語る女性たちの声を集め、大きな議論を巻き起こしました。ドナートが明らかにしたのは、後悔の存在自体ではなく、後悔が語られないことの社会的構造でした。

つまり、あなたが感じていることは「あってはならない感情」ではなく、「語ることを許されてこなかった感情」なのです。この区別は重要です。前者は「感じること自体が異常」ですが、後者は「感じることは正常だが、語る場所がなかった」です。

このシリーズは、その「語る場所」のひとつになることを目指しています。もちろん、記事を読むことと安全な人間関係のなかで話すことは違います。しかし、自分が感じていることに言葉が与えられること──「あの感覚にはアンビバレンスという名前がある」「同じことを感じている人は自分だけではない」──は、沈黙に最初の亀裂を入れる一歩になり得ます。

このシリーズの全体像

全10回のシリーズを通じて、以下の道筋で親の内面を見つめていきます。

今回(第1回)で、「愛せているかわからない」という問いを言葉にし、アンビバレンスの概念を導入しました。

第2回では、ウィニコットとパーカーの知見をさらに掘り下げ、親のアンビバレンスが「異常」ではなく、人間の正常な心理であることを見ていきます。

第3回では、「理想の親イメージ」──あなたの内側にある「こういう親であるべきだ」という声──が恥とどう結びついているかを見つめます。

第4回以降の有料回では、さらに深い領域に入ります。自分の親から何を受け継いだか(世代間伝達)。怒りが子どもに向かうとき、その恥。「産まなければよかった」という思考の恐怖。条件つきの愛情というもうひとつの暗闇。子どもに「ごめん」と言うことの意味。「ほどよい親」へのもう一度の着地。そして、暗闇を持ったまま育て続けるということ。

重いテーマです。しかし、重さから目をそらすために書かれた文章はたくさんあります。このシリーズは、重さに目を向けるために書かれています。

「愛しているはずなのに」が揺らぐ瞬間──親の暗闘を言葉にする

今回のまとめ

  • 「子どもを十分に愛せているかわからない」は、親にとって最大のタブーのひとつ──口にすれば親失格の烙印を押されるという恐怖がある
  • 「愛する」は行為であり営みであり、「愛情を感じる」は感情的体験である──両者は同じではない
  • アンビバレンス(両価性)──愛情と苛立ちが同時に存在する状態──は病理ではなく、人間の正常な心理
  • パーカーによれば、アンビバレンスには創造的な側面がある──愛情と苛立ちの間で葛藤することが、子どものニーズを感知するアンテナになる
  • 「愛せているか」と問えること自体が、子どもへの深い関心の表れ──完全に無関心ならこの問いは生まれない
  • ウィニコットの「ほどよい親」──子どもに必要なのは完璧な親ではなく、ときに失敗しつつおおむね応える親
  • 「愛せていない感覚」は「あってはならない感情」ではなく、「語ることを許されてこなかった感情」
  • このシリーズは育児ガイドでも自己弁護でもない──親の内面で何が起きているかを静かに言語化する試み

シリーズ

「自分の子どもを愛せているのかわからない」──親の中の暗闇を見つめる10話

第1回 / 全10本

第1回

「愛しているはずなのに」が揺らぐ瞬間──親の暗闘を言葉にする

子どもが寝静まった夜、愛情と疲弊が同居するあの感覚。「本当に愛せているのか」という問いは、口にした瞬間に親失格の烙印を押されそうで誰にも言えない。親の暗闘を言葉にすることから始める第1回。

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第2回

親のアンビバレンスは「異常」ではない──ウィニコットとパーカーが残した言葉

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