「産まなければよかった」──その思考が一瞬でも浮かんだことはありますか。浮かんだとき、あなたは凍りついたのではないですか。オルナ・ドナートの研究を手がかりに、この最大のタブーの構造を見つめる第6回。
一瞬の思考、永遠の恐怖
ある夜、子どもが何度目かの夜泣きで起きた。体が鉛のように重い。目を開けたくない。泣き声が続く。起き上がる。抱き上げる。揺らす。泣き止まない。何分経ったかわからない。そして、その思考がよぎった。
──「この子がいなければ」。
一瞬だった。0.5秒か、1秒か。しかし、脳はそれを確かに生成した。そしてその直後に、凍りつくような恐怖が全身を貫いた。「自分は今、何を考えた?」
この恐怖は、思考の内容そのものへの恐怖であると同時に、「こんな思考を持つ自分は何者なのか」という自己への恐怖です。第1回で見た「最大のタブー」が、ここで最も純粋な形で現れる。親が子どもの存在自体を否定する──これ以上のタブーは、親子関係において存在しない。
あるいは、もう少し別の形かもしれません。「産む前の人生に戻りたい」。「子どもがいない人生のほうが幸せだったのではないか」。「もし時間を巻き戻せるなら、同じ選択をするだろうか」。──これらの思考は、「この子がいなければ」ほど直接的ではないけれど、構造は同じです。親であること自体への後悔。
今回は、この最も暗い思考の構造を見つめます。前回の性急な再保証──「そんなこと思っても大丈夫だよ」──なしに。
ドナートの問い──「母であることの後悔」
2015年、イスラエルの社会学者オルナ・ドナート(Orna Donath)は「Regretting Motherhood: A Sociopolitical Analysis」を発表し、世界的な議論を巻き起こしました。
ドナートの研究は、23人のイスラエル人女性──全員が母であり、「もし時間を巻き戻せるなら母にはならなかっただろう」と語る女性たち──へのインタビューに基づいています。
ドナートが明らかにしたのは、「後悔」の内実でした。注目すべきは、後悔を語る女性たちの多くが子ども自身を愛していると述べていた点です。「子どもは大切だ。この子が生まれてきたことは素晴らしい。でも、自分が母になったことは後悔している」。──このパラドックスは、論理的には矛盾しているように見えます。しかし、ドナートの研究は、このパラドックスが実際に人間の中に共存できることを示しました。
ドナートの重要な区別はこうです。「子どもへの愛情」と「親であるという経験への評価」は、別の次元の問題である。子どもが愛おしいかどうかと、親であることが自分にとって良い経験だったかどうかは、独立した変数として動く。子どもを愛しつつ、親であることを後悔する──この組み合わせは、両者が同じ次元に属していると仮定する限り理解できないが、別次元としてとらえれば理解できる。
なぜ「後悔」は最大のタブーなのか
ドナートの研究が巨大な反発を招いたこと自体が、このタブーの強さを証明しています。「子どもを愛しているなら後悔するはずがない」「後悔するなら産むべきではなかった」「子どもがこれを読んだらどう思うのか」──こうした反応は、研究者たちの知見を学術的に検討する以前に、「こんな感情が存在すること自体を認めたくない」という社会的欲求を露呈していました。
ドナートは、このタブーの構造を社会政治的に分析しています。いくつかの層があります。
第一の層:母性の神聖化。多くの文化において、母になることは女性の最高の達成として語られる。「産んだ瞬間にすべてが報われる」「子どもがいる人生こそ本当の人生」。──こうした語りの中で後悔を表明することは、神聖な領域を汚す行為として処罰される。
第二の層:「選んだのだから」の論理。現代社会では、子どもを持つことは(少なくとも建前上は)選択とされている。選択したなら、その結果を引き受けるべきだ。後悔するのは甘えだ。──この論理は、「選択」が完全な情報と完全な自主性に基づいていたという前提に立っているが、実際にはほとんどの場合、子どもを持つ/持たないの決定は、社会的圧力、パートナーの希望、家族の期待、「いつかは産むもの」という文化的規範の中でなされている。純粋に自由な選択はまれです。
第三の層:子どもの存在の否定として読まれる。「産まなければよかった」は、文字通りに解釈すれば「この子が存在しないほうがよかった」です。子どもの存在そのものを否定する──これは、親子関係における最も根本的な規範(「親は子どもの存在を肯定すべきだ」)への違反として処罰される。しかし、ドナートが示したように、後悔している女性たちの多くは子どもの存在を否定しているのではなく、「母であるという役割の経験」を否定している。子どもがいなくなってほしいわけではない。自分が別の立場から──母ではない立場から──この子に関わりたかった、あるいは、母であることに伴う犠牲や制約がなければ、という願望。
第四の層:「後悔は子どもを傷つける」という恐怖。「自分が後悔していることが子どもに伝わったら」。──この恐怖は、後悔を感じること自体への恐怖をさらに増幅させる。しかし、ここでも区別が必要です。後悔の感情を持つことと、後悔を子どもに伝えることは異なります。親の内面に存在する感情のすべてが、自動的に子どもに伝わるわけではない。問題はむしろ逆で、後悔を完全に否認しようとするあまり、過剰補償や感情的な不安定さとして表面化するほうが、子どもにとっては混乱を招く場合がある。第2回で見た「否認されたアンビバレンス」の構造がここでもそのまま当てはまります。
「思考」と「願望」と「行動」の区別
ここで、冒頭の場面に戻ります。「この子がいなければ」という思考が一瞬よぎったとき、あなたは凍りついた。──しかし、ここで厳密な区別を導入します。
思考は、願望ではありません。「この子がいなければ」という思考が脳を横切ったことは、「この子がいなくなることを願っている」ことと同義ではない。極度の疲弊の中で脳が生成する思考は、意図的な思考(deliberate thought)ではなく、侵入的思考(intrusive thought)──意図に反して浮かんでくる、自我違和的な(ego-dystonic)思考──の性質を持ちます。
侵入的思考は、臨床心理学では非常によく知られた現象です。高い場所に立って「ここから飛び降りたらどうなるだろう」と考えること。包丁を持って「これで人を刺したらどうなるだろう」と考えること。──これらの思考は、飛び降りたいわけでも、人を刺したいわけでもない。脳が自動的に「最悪の可能性」をシミュレートしているだけです。そして、親としての文脈における「この子がいなければ」も、多くの場合、この種の侵入的思考です。
さらに、願望は行動ではありません。仮に「産む前に戻りたい」という願望があったとしても、それは「子どもを放棄する」「子どもを傷つける」という行動とは質的に異なる。人間は、実行する意図のない願望を持つことができる。「会社を辞めたい」と思う人の大半は辞めない。「離婚したい」と思う人の多くは離婚しない。思考や願望は、内的な経験であり、行動の予告ではない。
この三重の区別──思考≠願望、願望≠行動、侵入的思考≠意図的思考──は、「この子がいなければ」という思考に凍りつく人にとって、おそらく最も必要な枠組みです。凍りついたのは、思考を願望と同一視し、願望を行動と同一視し、自分を「子どもの存在を否定する親」として断罪したからです。しかし、思考が一瞬浮かんだことは、あなたがそれを望んでいることを意味しない。ましてや、あなたがそうする危険があることを意味しない。
「後悔」を語ることの意味と危険
ドナートの研究が重要なのは、「後悔してもいい」と言うためではありません。「後悔が存在するのに、存在しないこととして扱われている──その構造自体が問題だ」と指摘したためです。
後悔が語れないとき、何が起きるか。
第一に、孤立が深まる。「こんなことを感じているのは自分だけだ」という認識が固まり、誰にも打ち明けられない。第1回で見た恥の三条件──秘密・沈黙・孤立──がそろう。
第二に、恥が肥大化する。語れない感情は、内側でどんどん大きくなる。「こんな感情を持つ自分は人間として根本的に欠陥がある」。恥が巨大化するほど、それを包み隠すためのエネルギーが増え、養育や日常生活に使えるエネルギーが枯渇する。
第三に、抑うつが進行する。恥、孤立、エネルギーの枯渇は、抑うつの土壌そのものです。産後うつとの関連も臨床的に指摘されています。後悔の感情自体が抑うつを引き起こすのではなく、後悔を語れないことが抑うつのリスクを高める。
一方で、「後悔を語ること」にも注意が必要です。ドナートの研究が議論を呼んだ理由のひとつは、「後悔を正当化している」と受け取られたことでした。ここでの立場を明確にしておきます。
このシリーズは、後悔を「正しい」とも「間違っている」とも判断しません。後悔は感情であり、正誤の対象ではない。ここで行うのは、後悔という感情が存在するとき、その構造を理解し、その感情が語れないことによって生じる二次的な被害(孤立・恥・抑うつ)を認識することです。
子どもの存在と「母/父であること」を分ける練習
ドナートの区別──「子どもへの愛情」と「親であるという経験への評価」は別の変数──を、日常の言葉に落としてみます。
「もし時間を巻き戻せたら」。──この仮定法の文を頭の中で完成させてみてください。
「この子がいない世界」を想像していますか。それとも、「自分が別の条件で親をしている世界」──もっとサポートがある、もっとパートナーが協力的、もっと経済的に余裕がある、もっと自分の時間がある──を想像していますか。
多くの場合、後悔の対象は子どもの存在そのものではなく、親であることの条件です。孤立した育児。不平等な家事分担。失われた自分の時間。キャリアの中断。社会的な孤立。身体的な消耗。──これらの条件が改善されたなら、「後悔」はその形を変えるかもしれない。
これは、後悔を「条件のせいにする」ことではありません。後悔の感情の中にある具体的な要素を分解することです。「塊」として襲ってくる後悔は、圧倒的で対処不能に感じられる。しかし、分解してみると、「自分の時間が足りない」「サポートが足りない」「経済的な不安がある」──それぞれの要素には、少なくとも部分的な対処の可能性がある。「後悔」を構成している要素のうち、何かひとつでも改善できれば、全体の重さは変わるかもしれない。
「後悔」と「喪失」──もうひとつの光の当て方
ドナートの研究が「後悔」という強い言葉で語られたことで、議論は賛否の二極に分かれました。しかし、「後悔」の中身をもう一段丁寧に見ると、別の光が当たります。
親になったことで失われたもの──自由、時間、キャリアの可能性、パートナーとの二人だけの関係、自分だけの人生──これらは、現実に失われたものです。何かを得るために何かを失った。その「失ったもの」を悲しむことは、「後悔」ではなく「喪失への悲嘆(grief)」として理解できるかもしれません。
悲嘆と後悔は質が異なります。後悔は「あの選択をしなければよかった」という過去への否定です。悲嘆は「あの選択によって失われたものがあり、それを悲しむ」という喪失への承認です。後悔には罪の意識がつきまとうが、悲嘆にはそれがない。──あなたが感じているものは、本当に「後悔」でしょうか。それとも、「親になることで失ったものへの悲嘆」でしょうか。
この問いに正解はありません。両方が混在していることもある。しかし、「後悔」という一語で自分の感情を括ってしまうと、「最大のタブーを犯した」という恥が自動的に起動します。一方、「喪失への悲嘆」として捉え直せると、恥の強度は少し変わる可能性がある。なぜなら、喪失を悲しむことは人間の正常な反応であり、タブーではないからです。失ったものを悲しみながら、得たもの(子どもとの関係)を生きること。──その二つは共存できる。
「後悔」と向き合うための安全な距離
後悔という感情に向き合うべきだと言いつつ、ひとつ付け加えておきます。向き合い方には安全な距離があります。
「後悔がある」と認識すること。それを「あってはならない」こととして否認しないこと。可能であれば、安全な人間関係のなかで──パートナー、信頼できる友人、カウンセラー──言語化すること。──これが「安全な距離からの向き合い方」です。
一方、後悔に没入すること──「やっぱり産まなければよかった」「もう取り返しがつかない」「人生を台無しにした」──は、反芻(rumination)であり、恥のスパイラルに燃料を投入することになる。後悔を認めることと、後悔に支配されることは異なる。
この区別が自分では難しいと感じる場合、あるいは後悔の感情が日常生活に深刻な影響を与えている場合は、専門家(心療内科医、臨床心理士、公認心理師)への相談を検討してください。「後悔している」と専門家に伝えること自体が困難に感じるかもしれません。しかし、臨床の場は、社会的なタブーが適用されない空間として設計されています。
第7回への橋渡し──条件つきの愛
「後悔」の暗闇を抜けると、もうひとつの暗闇が見えてきます。それは、自分の愛情に条件がついていることへの気づきです。
「この子が言うことを聞くと、愛おしいと感じる」「いい成績を取ると、嬉しくなる」「他の子より優れていると、誇らしい」。──逆に言えば、「言うことを聞かないと苛立つ」「成績が悪いと落胆する」「他の子に劣ると恥ずかしい」。
これは、「条件つきの愛情」の構造です。次回は、カール・ロジャーズの「無条件の肯定的関心」を手がかりに、この条件つきの愛情の自覚がどのような痛みを伴うのかを見つめます。
今回のまとめ
- 「この子がいなければ」という思考が浮かぶことは、それを願っていることとも、行動する危険があることとも同義ではない
- 侵入的思考──意図に反して浮かぶ自我違和的な思考──は脳の正常な機能であり、異常の証ではない
- ドナートの研究が示したのは「後悔してもいい」ではなく、「後悔が存在するのに存在しないこととして扱われている構造」の問題
- 「子どもへの愛情」と「親であるという経験への評価」は別の次元──子どもを愛しつつ親であることを後悔する組み合わせは存在しうる
- 後悔が語れないことが、孤立・恥の肥大化・抑うつの進行を引き起こす──二次被害の構造
- 後悔の対象は多くの場合、子どもの存在そのものではなく「親であることの条件」──分解すれば部分的な対処が見える場合がある
- 後悔を「認める」ことと後悔に「没入する」ことは異なる──安全な距離感が重要
- 日常生活に深刻な影響がある場合は、専門家への相談を検討する